フランスのユグノーとイスラーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:52 UTC 版)
「プロテスタンティズムとイスラーム」の記事における「フランスのユグノーとイスラーム」の解説
1570年代、フランスのユグノーはスペインに対抗するために、モリスコと接触していた。1575年頃、アラゴンのモリスコとユグノーが共闘して、ナバラ王アンリ(後のフランス王アンリ4世)の指揮の下、ベアルンからアラゴンに侵攻する計画を建てた。この計画には、アルジェの王と、オスマン帝国の同意も取り付けていた。しかし、アラゴンにドン・フアン・デ・アウストリアが到着し、モリスコの武装を解除したことで、この計画は水泡に帰した。1576年、コンスタンティノープルからの艦隊がムルシアとバレンシアの間に上陸し、フランスが北から侵攻し、モリスコが反乱を起こすことを計画した。しかし、オスマン艦隊が到着せず失敗した。
※この「フランスのユグノーとイスラーム」の解説は、「プロテスタンティズムとイスラーム」の解説の一部です。
「フランスのユグノーとイスラーム」を含む「プロテスタンティズムとイスラーム」の記事については、「プロテスタンティズムとイスラーム」の概要を参照ください。
- フランスのユグノーとイスラームのページへのリンク