チェシン公家
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「ハプスブルク=ロートリンゲン家」の記事における「チェシン公家」の解説
「チェシン公国」も参照 シレジア南東部にあったチェシン公国(ドイツ語ではテシェン公国)は、ピャスト家支族によって治められていたが、女公エルジュビェタ・ルクレツィアが1653年に没した後、ボヘミア王としてのハプスブルク家君主の支配下に入った。しかし、皇帝カール6世の時代にロレーヌ公レオポルトに譲られ、レオポルトの死後は息子フランツ・シュテファンが受け継いだ。 フランツ・シュテファンが皇帝位に就いたことで、チェシン公位は再び皇帝位と統合されるが、トスカーナと同様にハプスブルク家の本領とは別に相続されることになり、フランツの死後は長男ヨーゼフ2世を経てその妹マリア・クリスティーナが夫のザクセン公子アルベルト・カジミールと共同で受け継いだ。夫妻には実子がなかったため、マリア・クリスティーナの弟である皇帝レオポルト2世の三男カール大公を養子として公国を相続させた。カールは兄であるオーストリア皇帝フランツ1世の治世に、オーストリア軍司令官としてフランス革命戦争およびナポレオン戦争において活躍したことで知られるが、以後カールを祖とする家系が新たなチェシン公家(ハプスブルク=テシェン家)となった。 この家系からは第一次世界大戦時にオーストリア=ハンガリー陸軍の最高司令官を務めたフリードリヒ大公、ポーランド国王候補にもなったカール・シュテファン大公、両シチリア王フェルディナンド2世妃マリーア・テレーザ、スペイン王アルフォンソ12世妃マリア・クリスティーナなどが出ている。 チェシン公国は第一次世界大戦後にチェコスロヴァキアとポーランド第二共和国の間で分割されて消滅した。チェシン公家の血筋はその後も続いている。
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