チェシン公家とは? わかりやすく解説

チェシン公家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 04:05 UTC 版)

ハプスブルク=ロートリンゲン家」の記事における「チェシン公家」の解説

チェシン公国」も参照 シレジア南東部にあったチェシン公国ドイツ語ではテシェン公国)は、ピャスト家支族によって治められていたが、女公エルジュビェタ・ルクレツィア1653年没した後、ボヘミア王としてのハプスブルク家君主支配下入った。しかし、皇帝カール6世時代ロレーヌ公レオポルト譲られレオポルト死後息子フランツ・シュテファン受け継いだフランツ・シュテファン皇帝位に就いたことで、チェシン公位は再び皇帝位と統合されるが、トスカーナ同様にハプスブルク家本領とは別に相続されることになり、フランツ死後長男ヨーゼフ2世経てその妹マリア・クリスティーナが夫のザクセン公子アルベルト・カジミールと共同受け継いだ夫妻には実子がなかったため、マリア・クリスティーナの弟である皇帝レオポルト2世三男カール大公養子として公国相続させた。カールは兄であるオーストリア皇帝フランツ1世治世に、オーストリア軍司令官としてフランス革命戦争およびナポレオン戦争において活躍したことで知られるが、以後カールを祖とする家系新たなチェシン公家(ハプスブルク=テシェン家となった。 この家系からは第一次世界大戦時オーストリア=ハンガリー陸軍最高司令官務めたフリードリヒ大公ポーランド国王候補にもなったカール・シュテファン大公両シチリアフェルディナンド2世マリーア・テレーザスペイン王アルフォンソ12世マリア・クリスティーナなどが出ている。 チェシン公国第一次世界大戦後チェコスロヴァキアポーランド第二共和国の間で分割され消滅した。チェシン公家の血筋その後続いている。

※この「チェシン公家」の解説は、「ハプスブルク=ロートリンゲン家」の解説の一部です。
「チェシン公家」を含む「ハプスブルク=ロートリンゲン家」の記事については、「ハプスブルク=ロートリンゲン家」の概要を参照ください。

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