ターリコータの戦いと死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/19 23:08 UTC 版)
「ラーマ・ラーヤ」の記事における「ターリコータの戦いと死」の解説
ラーマ・ラーヤはこのように傲慢にふるまっていたが、デカン・スルタン朝の側もいいように利用されていることに気づき、ついにビジャープル王国、ゴールコンダ王国、アフマドナガル王国、ベラール王国、ビーダル王国の5王国間に同盟が結成されるに至った。 1564年末、デカン・スルターン朝連合軍は大軍をもって、ヴィジャヤナガル王国の首都ヴィジャヤナガルへと進撃した。ラーマ・ラーヤはすでに80歳を超す老人だったが、これを迎撃するため、ヴィジャヤナガルから弟と共に進軍した。 1565年1月、ラーマ・ラーヤ率いるヴィジャヤナガル軍とデカン・スルターン朝の軍勢はターリコータの地で激突した(ターリコータの戦い)。同年1月23日にラーマ・ラーヤが戦いのさなかに武将の裏切りにより捕えられ殺されてしまい、同月26日にはヴィジャヤナガル王国の軍が壊滅的な打撃を受けて、この戦いで兵100,000人が殺されることとなった。
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