クーデターによる即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:49 UTC 版)
翌成化5年(1469年)4月、尚徳王が薨去し、法司(三司官)はその世子を即位させようと、重臣たちを招集して会議を開いたが、国王としての資質を問われ、その席で金丸を次期王に推すことが決定され、金丸は隠遁先から首里に迎えられ即位し、尚円と名乗る。ここから第二尚氏王統が始まった。伝承ではこの場で、泊村の老人安里大親が神がかりして「物呉(ものく)ゆすど我御主(わがうすう)、内間御鎖(うちまうざし)ど我御主」(財貨を与えてくれる者こそ我が主であり、それは内間金丸さまである)と世謡(ユーウテー)を謡いだした。それを聞いた一同は「ヲーサーレー」(その通り)と唱和して、金丸を王に推戴したという。 この王朝交代劇は、第二尚氏公式の史書である『中山世譜』『球陽』にそれぞれ、「(尚徳の)世子将に立つ。群臣之を殺す。国人金丸を推戴す。君と為す。(中山世譜巻1 歴代総紀)」、「貴族近臣、其の変有るを見、先を争ひて逃去す。王妃・乳母、世子を擁着して真玉城に隠る。兵、追ひて之れを殺す。(球陽巻3附紀 尚円王伝)」とあり、クーデターが行われたことは間違いない。ただし、この企てに金丸自身が積極的・主体的に関与していたか否かは定かではなく、あくまでも事後に群臣の推挙を受け、一度は隠遁した身ながらやむを得ず王位を受けた、という体裁である。 このクーデターの時期は、『球陽』の記述からすれば7月となる。 伝承では、第一尚氏の後裔と称する門中はいくつかある。たとえば、孫氏平田家(尚思紹王次男(三男とも)後裔)、武氏嘉陽家(尚泰久王五男後裔)、雍氏目取真家(尚徳王三男後裔)、明氏亀谷家(尚徳王三男後裔)等である。もっとも家譜に記載があるわけではないので真偽はわからない。それゆえ、実際どの程度の虐殺があったのかは不明である。
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