エジプト第6王朝
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エジプト第6王朝(エジプトだい6おうちょう、紀元前2345年頃 - 紀元前2185年頃)は、エジプト古王国時代の古代エジプト王朝。エジプト古王国時代最後の王朝であり、その初期には活発な対外遠征を繰り返して周辺諸国を征服した。やがて第6王朝の中央権力の弱体化とともにエジプトの各地で州の長官たちが自立勢力となり、第1中間期と呼ばれる分裂の時代が訪れた。この王朝の崩壊を以ってエジプト古王国の終焉とされる場合が多い。
注釈
- ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。
- ^ この治世年数はマネトの記録に基づき比較的よく用いられるが、彼の治世は64年またはそれ以下とする学者もある。[6][7]。
- ^ マネトはニトクリスを気高く、色白の美貌の女性として描き、メンカウラーのピラミッドは彼女の手で築かれたと伝えている。
- ^ ヘロドトスの記録では、ニトクリスの兄弟はエジプト王であったがエジプト人達は彼を殺しニトクリスに王位を委ねた。ニトクリスは兄弟のかたき討ちを企図した。巨大な地下室を築いて落成式を行うとして多数のエジプト人を集め、秘密の管から水を流し込んでこれを虐殺した。そして事が終わると報復を免れるために自ら灰(焼灰)の詰まった部屋に身を投じて自殺したとされる。『歴史』巻2 §100(松平 1971, p.220)
- ^ 詳細は メンフィスの項を参照
- ^ クレイトン 1999, 83p に記載がないため、フィネガン 1983, 255p にある"治世年数1(?)年" という記述を元に作成。当該在位年はクレイトン 1999, 83p のペピ1世の在位年と整合性がある。
- ^ クレイトン 1999, 83p に記載がないため、en:Sixth Dynasty of Egypt(08:40, 26 January 2017(UTC))の記述から引用した。当該在位年はクレイトン 1999, 83pのペピ2世の在位年と整合性がある。
- ^ マネトの記録では女王
- ^ クレイトン 1999, 83p に記載がないため、en:Sixth Dynasty of Egypt(08:40, 26 January 2017(UTC))の記述から引用した。
出典
- ^ クレイトン 1999, p.82
- ^ ティルディスレイ 2008, p.70
- ^ a b フィネガン 1983, p.255
- ^ クレイトン 1999, p.84
- ^ フィネガン 1983, p.258
- ^ クレイトン 1999 p.86
- ^ Michael Baud 2006, pp.155-156
- ^ 畑守 1998, p.224
- ^ 畑守 1998, p.229
- ^ クレイトン 1999, p.87
- ^ a b ティルディスレイ 2008, p.79
- ^ a b https://pharaoh.se/pharaoh/Netjerikara
- ^ 屋形ら 1998, pp.410-411
- ^ フィネガン 1983, pp.255-258
- ^ 参考文献『ファラオ歴代誌』の記載に依った。クレイトン 1999
- 1 エジプト第6王朝とは
- 2 エジプト第6王朝の概要
- 3 歴史
- 4 遺構
- 5 参考文献
- 6 関連項目
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