アルグ・テムルとは? わかりやすく解説

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アルグ・テムル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/23 09:09 UTC 版)

アルグ・テムルモンゴル語: Aruγ Temür中国語: 阿魯輝帖木児、生没年不詳)は、チンギス・カンの子のオゴデイの子孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では阿魯輝帖木児と記される。


  1. ^ 村岡1992,37-38頁
  2. ^ 『元史』巻206列伝93叛臣: 阿魯輝帖木児、滅里大王之裔也。初、太宗生七子、而滅里位第七。世祖既定天下、乃大封宗親為王、滅里其一也。滅里生脱忽、脱忽生俺都剌、俺都剌生禿満、至大元年、始封陽翟王、賜金印螭紐、俾鎮北藩。禿満伝曲春、曲春伝太平、太平伝帖木児赤、而阿魯輝帖木児襲其封。 会兵起汝・潁、天下皆震動、帝屡詔宗王、以北方兵南討。阿魯輝帖木児知国事已不可為、乃乗間擁衆数万、屯于木児古兀徹之地、而脅宗王以叛。且遣使来言於帝曰「祖宗以天下付汝、汝何故失其太半、尽以国璽授我、我当自為之」。帝聞、神色自若、徐曰「天命有在、汝欲為則為之」。於是降詔開諭、俾其悔罪、阿魯輝帖木児不聴。乃命知枢密院事禿堅帖木児等撃之。行至称海、起哈剌赤万人為軍。其人素不習為兵、而一旦駆之使戦、既陣、兵猶未接、皆脱其号衣、奔阿魯輝帖木児軍中、禿堅帖木児軍遂敗績、単騎還上都。 至正二十一年、更命少保・知枢密院事老章、以兵十万撃之、且俾阿魯輝帖木児之弟忽都帖木児従征軍中、遂大敗其衆。阿魯輝帖木児遂謀東遁。其部将脱驩知其勢窮、乃与宗王嚢加・玉枢虎児吐華擒阿魯輝帖木児送闕下、帝命誅之。於是加老章太傅、脱驩知遼陽行枢密院事、仍以忽都帖木児襲封陽翟王、而宗王嚢加等、悉議加封。尋又詔加封老章和寧王、以嶺北行省丞相知行枢密院事、俾鎮北藩云。


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