『学問のすゝめ之評』
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「学問のすゝめ」の記事における「『学問のすゝめ之評』」の解説
福澤は、上記の批判に対して、慶應義塾 五九樓仙萬(ごくろうせんばん)というペンネームで「学問のすすめ之評」という弁明の論文を記して投稿し、『郵便報知新聞』明治7年11月5日号付録に掲載された。さらに、『朝野新聞』同年11月7日号に「学問ノススメ之評」として転載され、『日新眞事誌』同年11月8 - 9日号、『横浜毎日新聞』同年11月9日号にも掲載された。この投書が掲載されてから、「物論(ぶつろん)漸く鎭(しづ)まりて爾来(じらい)世間に攻撃(こうげき)の聲を聞かず」という事になった。
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