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大内義興

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 13:50 UTC 版)

大内 義興(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防山口)の戦国大名。周防の在庁官人大内氏の第15代当主。


注釈

  1. ^ 文明18年の文書に10歳。足利高氏旗模本裏書明応10年に25歳。甲冑寿容賛永正8年に35歳とある。[1]
  2. ^ a b 『蔭涼軒日録』長享2年1月30日条に「大内息次郎、相公(足利義尚)賜二字、義興、義字賜者世所稀也」と記されている。
  3. ^ 今小路は賀茂神社社家の娘で一条家に女房となり、後に同族と結婚したものの、離別もしくは死別して実家に戻り、政弘に見初められて室となった。なお、「今小路」の母親である竹内氏は畠山義統の生母の姉妹とみられており、政弘の室になる前にいったん従兄弟である義統の養女となっている(『大乗院寺社雑事記』延徳4年6月30日条)。なお、「今小路」は知人である三条西実隆によれば、永正9年3月26日に58歳で死去したという(『実隆公記』永正9年4月23日条)[5]
  4. ^ 大乗院日記目録』文明8年12月20日条に「大内息新助今日京著畢」と大内政弘の息子の上洛の記事があるが、義興が誕生する以前の記事である。また、同日条に出てくる「新助」=「新介」の名乗りは、義興の幼名「亀童丸」もともに大内氏の嫡子に与えられる名乗りであり同氏の後継者が2人存在したことになってしまう。このため、義興には誕生前に死去あるいは廃嫡となった兄がいた可能性がある。また、大内高弘がその廃嫡された兄であった可能性も否定できない[6][7]
  5. ^ 常楽寺文書「大内殿御先祖次第」より。なお父・政弘は応仁元年(1467年)以来、応仁の乱の西軍方として京都に出陣して文明9年末まで領国には帰っておらず、日付が正しければ義興は大内氏の本拠地である山口ではなく京都で生まれたことになる。
  6. ^ 『肥陽軍記』では、落城したのは千葉胤資が守備する晴気城であり。落城後少弐政資は多久梶峰で切腹し、少弐高経は東肥前城原の城が落城後、広瀬山で自害したとある[1]
  7. ^ なお、高国にも同様の打診(従四位下上階)があったが、これを辞退すること(『実隆公記』永正9年3月28日条)で、上階の栄誉を義興1人に与えつつ、代替に同じく名誉とされた将軍・義尹の御成を受けることでその意向にも配慮している。[31]
  8. ^ 長谷川博史や藤井崇の説によれば、尼子経久の大内領侵攻に動き始めたのは義興の帰国以降の出来事であり、そのきっかけは義興が石見守護に任ぜられたことに反発する前守護・山名氏の被官が経久を頼って小競り合いを繰り広げたことにあるとする。そして、大内氏と尼子氏の本格的な衝突は出雲支配の確立を目指す尼子氏と出雲国境に影響力を有していた備後の国人・山内氏や安芸の国人・宍戸氏との対立が原因であったとする[34]

出典

  1. ^ a b c d e f g h 近藤清石 1885.
  2. ^ 大内義興』 - コトバンク
  3. ^ a b c d e f g 『大内系図』
  4. ^ a b 『氷上山上宮参詣目録』
  5. ^ 藤井崇 2014, pp. 33–35.
  6. ^ 藤井崇 2013, p. 307.
  7. ^ 藤井崇 2014, pp. 32–33.
  8. ^ 藤井崇 2014, p. 35.
  9. ^ 福尾猛市郎 1989, p. 36.
  10. ^ 藤井崇 2014, pp. 36–43.
  11. ^ 藤井崇 2014, p. 49.
  12. ^ a b c 福尾猛市郎 1989, p. 38.
  13. ^ 藤井崇 2014, pp. 7‚51–53‚60–63.
  14. ^ 藤井崇 2014, pp. 7‚53–56.
  15. ^ a b 『五社参詣次第』
  16. ^ 『肥陽軍記』
  17. ^ 『東寺過去帳』
  18. ^ 藤井崇 2014, pp. 7‚56–60‚65.
  19. ^ 藤井崇 2014, pp. 66–70.
  20. ^ 白崎八幡宮楼門棟札』
  21. ^ 萩市佐々並『六所神社棟札』
  22. ^ a b 『京都将軍家譜』
  23. ^ a b 『重編応仁記』
  24. ^ 藤井崇 2014, pp. 77–83.
  25. ^ 『足利家官位記』
  26. ^ 『王代一覧』
  27. ^ 福尾猛市郎 1989, p. 206.
  28. ^ 藤井崇 2014, pp. 83–84.
  29. ^ 藤井崇 2014, pp. 85–89.
  30. ^ 藤井崇 2014, pp. 102–105.
  31. ^ 浜口誠至 2014, pp. 91–93, 227–229.
  32. ^ 藤井崇 2014, pp. 105–108‚118–124.
  33. ^ a b c d 福尾猛市郎 1989, p. 39.
  34. ^ 藤井崇 2014, pp. 141–144.
  35. ^ 藤井崇 2014, pp. 136–140.
  36. ^ 藤井崇 2014, pp. 147–153.
  37. ^ 福尾猛市郎 1989, p. 51.
  38. ^ 『大内義隆記』
  39. ^ 『扶桑拾葉集』
  40. ^ 福尾猛市郎 1989, p. 40.
  41. ^ 『山口県史 資料編 中世2』
  42. ^ 『高嶺太神宮御鎮座伝記』


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