人力車 歴史

人力車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/05 01:21 UTC 版)

歴史

「孔子問答‧小兒論」(1680年)の挿絵
20世紀初頭のニュージャージー州。当時の富裕層は、障害とは関係なく、車椅子に乗って、それを召使いに押させる事があった。
タイコーサマ
Les Deux Carrosses by Claude Gillot, 1707
人力車 日本、1886年 シルバープリントに彩色。
人力車 日本、1897年

16世紀中国で書かれた『三国志演義』では、椅子を備えた手押し車に乗った諸葛亮が描かれているという。オランダ人作家アルノルドゥス・モンタヌスによる1669年の著書でも日本を描いた絵の中に、「タイコーサマ」なる女性が諸葛亮同様の手押し車に乗っているものがある。それが日本に実在していたものかは不明だが、その頃までには人力車の様なものの存在が欧州には伝わっていた事が窺える。

1707年フランス人画家クロード・ジローClaude Gillot)が発表した「Les Deux Carrosses」(直訳:「二台の車」)には、後の人力車によく似た乗り物が描かれている。他、ヨーロッパやアメリカでは、日本のように複数人を載せるものではなかったが、富裕層が車椅子に乗り、召使いに押させるなどしていた。

明治初年(ほぼ1868年)のものとして、外国人が乗り車夫が日本人と見える人力車が静岡田子の浦橋上にいる写真が、ドイツボン大学に保存されていることがわかった[13]

自動車の普及と共に日本では廃れて行き、他の地域でも自転車を使ったサイクルリクシャーや、オートバイを使ったオートリクシャーに置き換えられて行った。

人力車の発明

1848年頃にアメリカ合衆国鍛冶職人アルバート・トルマン(Albert Tolman)によって宣教師の乗り物としてウースターで作られたという説、1869年頃に来日アメリカ人宣教師ジョナサン・ゴーブル(またはジョナサン・スコビー(Jonathan Scobie))が病弱の妻の為に考案して横浜で使っていたという説もあるが、記録上では日本の和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3名が発明者として明治政府から認定されている[14]。3名は東京で見た馬車から着想を得て1868年(明治2年)に人力車を完成させ、翌年1869年(明治3年)に日本橋で開業したとされる。 ただし、1899年2月10日の第13回帝国議会(衆議院)では「人力車発明人ニ年金給与ノ建議案」が提出されていたが和泉らが発明者かどうかで議論となっていた。これは「何を人力車とするか」の争点もあったが当時、多くの山師達も含めた自称者が多かったためでもある。前後するが1895年3月にも、都新聞論説において、発明人に対する議論があがっている。

様々な文献からの発明者と、それに対する意見を述べた文献、資料、事実を、次に記す。

  • (各種出願)和泉要助、他2名
  • (都新聞投書)広瀬某
    • 明治事物起源では、発明者を詐称した山師であろうと考えられている。
  • (都新聞投書)高山幸、鈴木徳(=油屋徳右衛門)
    • 日本工業文化史では、松兵衛の小車を改良したものであると考えられている。
  • (工業志料)幸助(車工)、田中古朴による共同発明
    • 横浜沿革誌では、これを、引用している。
    • 斉藤著人力車では、幸助=高山幸助であり高山は、田中とともに車体改良をしたと考えられている。
  • (愛知新聞(1872年11月31号))東京八町堀 八百屋の音吉
    • 斉藤著人力車では、音吉=鈴木徳次郎の可能性を指摘した上で、「ニ三有志ト議シ」が和泉、高山である可能性を指摘している。
  • (日本工業文化史)名古屋の与助
  • (官設歴史編纂所(東大史料編纂所の前身)から東京府知事への質問状(1878年))小林要吉
    • 小林が発明したとされるが相違ないかどうかの質問に対して、東京府勧業課は、1869年に和泉要助ら3名が発明。1873年12月に大蔵省に出願されたが専売特許を与えておらず、また小林が発明したという話は聞いたことが無いと回答。
  • 第13回帝国議会速記録(1899年2月10日)西田虎次郎
    • 京橋区内の酒井善次郎他五名からの請願書によれば、和泉らではなく西田こそが真の発明者であるとされた。
    • 建議案提出者は、発明者が和泉。補助者が高山、鈴木。実地製作者が西田であるとした。建議案においても「……及び工人西田虎次郎ノ発明ニ係リ」と記されている。
    • 1900年3月20日の賞勲局からの下賜では、西田は、外されている。
    • 1877年の内国勧業博覧会に出品された人力車にも「工人・西田虎次郎」とある。

日本での普及と発明の利益

博多駅前で客待ちする人力車
人力車夫の扮装をした皇太子時代のエドワード8世 (イギリス王)。1922年

当時の日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になった。明治4年旧暦12月、人力車の数は、東京府下で4万台、京都数十台、静岡・草津1台[15]

1870年東京府は発明者と見られる前記3名に人力車の製造と販売の許可を与えた。条件として人力車は華美にしないこと、事故を起こした場合には処罰する旨があった。この許可をもって「人力車総行司」と称した。人力車を新たに購入する場合にはこの3名の何れかから許可をもらうこととなったが、後述のとおり数年で有名無実となってしまう。同年、人力車の運転免許証の発行が開始されている。

人力車は安全性の高さと運賃の安さ、玄関先まで届けられるという小回りの良さが大衆に受けて急速に普及し[16]、1872年までに、東京市内に1万台あった駕籠は完全に姿を消し、逆に人力車は4万台まで増加して、日本の代表的な公共輸送機関になった。これにより職を失った駕籠かき達は、多くが人力車の車夫に転職した。1876年には東京府内で2万5038台と記録されている[17]19世紀末の日本には20万台を越す人力車があったという[18]。人力車夫は明治期都市に流民した下層社会の細民の主要な家業となり、明治20年代には東京市内に4万人余も存在したが、その後都市交通の発達により数を減少させていった[19]。また、人力車夫の中には女性もいたといわれている[16]。初期の人力車は、箱に車輪を取り付けただけの単純な構造であったが、日進月歩で改良されて、凸凹道でも耐えうるスプリング付きの車輪が登場するようになり、木輪はゴム輪に変わり、その後空気入りのゴムタイヤへと改良されていった[16]

また、1870年代半ばより中国を中心として東南アジアインドに至るアジア各地への輸出が始まり、特に東京銀座に秋葉商店を構えた秋葉大助はほろや泥除けのある現在見るような人力車を考案し、性能を高め贅を凝らした装飾的な人力車を制作し、その多くを輸出して大きな富を得た。他方、当初人力車の製造と使用を許可された和泉たちは激増する車夫たちすべてから使用料を取ることができず、また当時の特許制度(「専売略規則」)の不備・使いにくさもあいまってほとんど利益を上げることができなかった。この事実が、後に日本に本格的な特許制度の誕生をうながした。

日本では、1895年の京都電気鉄道開業を皮切りに、各都市で路面電車が導入された。東京で1903年の市電開業時に4万3千人いた車夫は、2年後には2万6千人になり、人力車は急速に姿を消していった[20]。1903年6月12日、大阪の人力車夫は、巡航船の市内河川運航に反対して休業、土佐堀青年会館で集会を開き、一部は巡航船を襲撃した[21]。大量失業に見舞われた車夫は、1905年の日比谷焼打事件など、この時期の都市騒擾で市電を焼くなどの敵意を見せた[20]。1908年4月上旬、警視庁の老車夫鑑札取上げに反対する東京老車夫救済会が結成された[22]。1909年、人力車の車輪がゴム車輪となり、賃借料が値上がりし、借車で営業している車夫の廃業がふえた[23]。1912年4-5月ころ、空気タイヤ人力車が登場し、10月24日、新車の高額賃借料をおそれた車夫300人が警視庁に使用制限を嘆願した[24]。大正時代にはさらにタクシーが出現し、人力車の衰退に追い打ちをかけた。大正時代には人力車の姿はほとんど見えなくなった[16]

近年になって、観光地で明治時代の文化であった人力車を復活する動きが出て、観光客向けにサービスを提供するようになっている[16]

アジア各地への展開

1880年頃、人力車はインドに導入される。最初はシムラー、20年遅れてコルカタ(=カルカッタ)に現れる。インドでは、まず中国人の運搬装置の商人が使い始めた1914年にその中国人たちが人力車を乗物として使用できるように許可を申請した。

そのあとすぐに、人力車は東南アジアの多くの大都市で見られるようになる。多くの場合、人力車の運転手は、都市に移住してきた地方労働者の最初にありつく仕事であった。

中国では日本製の人力車が爆発的に広まり、「黄包車」「洋車」の別名でも呼ばれていた。さらに国産の人力車工場が各地に建てられ、全土に人力車が広まった。上海には大小100を超える人力車工場があったとされる。


  1. ^ 精選版 日本国語大辞典「人力車」
  2. ^ 「200kgの車体を引いて毎日20km以上走る」最年長52歳の人力車夫がこの仕事にこだわるワケ 若い車夫たちの「見本」になりたい” (日本語). PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2021年10月27日). 2022年3月23日閲覧。
  3. ^ 伊藤晴雨 『江戸と東京風俗野史 : いろは引』成島乙次, 弘文館(発売)、1927年。doi:10.11501/1186793全国書誌番号:46078011https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001434995-00 
  4. ^ 日吉組出没アド街ック天国、テレビ東京、2005年11月19日(土)放送
  5. ^ 『 [あげまん] 可愛い女の演出術(メイキング) 』 (1990)
  6. ^ 車椅子を”引いて”移動をサポートする「JINRIKI」があれば、安心して段差を乗り越えられるNPO法人soar、2018/03/20
  7. ^ 五條満:人力車引く82歳 現役です◇定年後始めて20年、お客さんと「タイムトラベル」◇『日本経済新聞』朝刊2018年10月22日(文化面)2018年10月28日閲覧。
  8. ^ 学生による「人力車事業」で城下町を活性化 常葉大学大学ジャーナルオンライン(2015年11月20日)2018年10月28日閲覧。
  9. ^ Needham, Volume 4, Part 2, 259.
  10. ^ 人力車観光バス” (日本語). Hong Kong ナビ. 2016年3月30日閲覧。
  11. ^ Eide、1993。
  12. ^ WebIndia、2005。
  13. ^ 週刊ポスト 2011年2月18日号 巻頭部グラビア。人力車は座席の底部がまるく、人物は洋傘と帽子、車夫は日本人の鉢巻き姿というシルエット。必ずしも日本製という根拠はない。明治初年というのは、この雑誌の写真解説。
  14. ^ 東京府下和泉要助外二名ヘ人力車発明ニ付賜金 国立公文書館 デジタルアーカイブ 画像データ表示
  15. ^ 新聞雑誌25号
  16. ^ a b c d e 浅井建爾 2001, p. 248.
  17. ^ 明治9年東京府管内統計表。
  18. ^ Powerhouse Museum, 2005; The Jinrikisha story, 1996、ほかいくつかのウェブサイトより。
  19. ^ 吉見俊哉1987『都市のドラマトゥルギー』
  20. ^ a b 『国権と民権の相克』、308頁。
  21. ^ 日本労働運動史料2 労働運動史料委員会編
  22. ^ 東京社会新聞3号
  23. ^ 中外商業新報
  24. ^ 東京朝日新聞
  25. ^ 人力車” (日本語). 94才のホームページ. 2012年5月1日閲覧。
  26. ^ 高峡「人力車夫へ「下降」の現象について―樋口一葉文学の人力車夫モチーフ―」『多元文化』第8巻、名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻、2008年3月、 135-148頁、 doi:10.18999/muls.8.135hdl:2237/10159ISSN 1346-3462NAID 120000976397
  27. ^ イントロダクション映画『力俥-RIKISHA-』公式サイト


「人力車」の続きの解説一覧




人力車と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「人力車」の関連用語

1
100% |||||

2
100% |||||

3
100% |||||

4
100% |||||

5
100% |||||

6
100% |||||

7
100% |||||

8
100% |||||

9
100% |||||

10
100% |||||

人力車のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



人力車のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの人力車 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS