スティーブン・オースティン
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メキシコとの関わり
移民の規制や特恵関税法の導入などにより移民たちの不満が募り、この不満はアナウアク騒擾事件などでピークに達していた。オースティンは傲慢なアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナを支持してでもメキシコの政界に介入する必要を感じた。サンタアナ支持の見返りとし1832年の集会 (Convension of 1832) では移民の再開、関税の免除、コアウイラ州から分離したテキサス州の起立などを要求することを決議した。オースティンは内心では全面的に賛成することはできなかった。むしろ、今は時期が悪いとして急進勢力の説得にあたった。しかし、翌1833年に行われた集会 (Convension of 1833) でも一層内容が膨らんだ要求の決議が行われた。オースティンは1833年7月18日にメキシコシティに出向いて副大統領のバレンティン・ゴメス・ファリアスに面会した。ここで移民停止の棚上げなどいくつかの成果を得たがテキサス州の分離はかなわなかった。一州として起立するためには人口が80,000を超えていることが必要だったが、当時のテキサスのそれは30,000人しかなかったからだ。
逮捕
メキシコ議会には9月まで会うことができないと通告されるなど、オースティンは事態の進行が遅いのに苛立っていた。苛立ちの中で、サンアントニオの行政庁 (ayuntamient) 宛に手紙を書いた。内容は、コアウイラ州から分離するために、テキサスの全ての地方行政庁が結束することを促すものであった。1833年12月10日、ルイス・デ・ラ・ロザとともに馬車に乗りメキシコシティを離れ600マイル先の北方を目指した。翌年1月2日に、途中のサルティーリョの町において逮捕された。理由は前年10月に書いた手紙の内容が反乱罪にあたるというもので、知事フランシスコ・ビリャセニョールの命令で司令官ペドロ・ルメスが執行した。オースティンはメキシコシティに送り返され、異端審問刑務所の15番独房に放り込まれた。その後の数ヶ月は刑務所を出たり入ったりを繰り返したが、テキサスの二人の弁護士、ピーター・グレイソンとスペンサー・ジャックの働きで釈放された。オースティンがテキサスに戻ったときには1835年になっていた。
テキサス独立戦争
オースティンの留守中、テキサスの移民とサンタアナの中央集権政府との対立は更に深まっていた。1835年10月12日から12月11日にかけてのベハル包囲戦においてはオースティンが一時的だがテキサス軍の指揮を取った。怒ったサンタアナの率いるメキシコ軍は1835年夏のアナウアクやベラスコにおける騒擾事件の経験から、素早く準備を整え、テキサスのアングロ人一掃を企てた。本格的な戦争は1835年10月にゴンザレスで始まった。1836年4月21日、サンジャシントの戦いで劇的勝利を収め、翌朝にはサンタアナを捕虜にした時点で、テキサス共和国は1836年3月2日に起草した憲法の下、独立を勝ち得た。
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