いのうえ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/23 06:24 UTC 版)
概要
1913年、前身となる「井上葬具店」を井上峰一の祖父である井上英二(ひでじ)が創業。[1]
井上家は代々酒津界隈に住む郷士の家柄で、郷士は武士の身分だが、長らく平和の続いた時代では土着の百姓とあまり変らず、猟をしたり田畑を耕したり、時には大商家の手伝いなどもしていた。井上英二の父は40歳の若さで亡くなり、高等小学校を卒業すると大工に弟子入りをした。そして、20歳になるまでには一通りのことはこなせるまでものを身に付けていた。奉公先が宮大工の流れを汲んでいたため、英二自身も大工というよりは建具職人としての技術を得意としたが、そのことが将来独立して葬具店を営む契機となった。
明治時代以前は、地区の世話役が葬儀の段取りを全て行い、喪主も世話役の指示に口を挟むことはなかった。しかし、幕藩体制の崩壊で人々の往来が激しくなった市街地ではあちらこちらから異なる習慣や職業の人たちが流入したことにより、以前のようなまとまりが次第に難しくなった。明治の末頃からは葬儀一切を行なう新しい職種としての葬儀屋が必要とされるようになり、いのうえ葬具店を創業するに至った。
昭和25年頃には倉敷市役所でも葬儀サービスを始めて、バス型の霊柩車を稼動させるようになったため、京都まで出かけて宮型の霊柩車を購入する。昭和30年代頃には道具類の用意だけでなく、葬儀全般に亘って依頼を受けることが次第に多くなり、葬儀に関わる人員の手配なども行なうようになった。ニーズは、葬具専門店から葬儀社へと変わりつつあった。
昭和40年(1965年)1月、それまでの個人商店だった「井上葬具店」に替えて「有限会社井上葬儀」を設立。代表取締役に井上峰一の父である井上哲二が2代目社長へ就任。昭和50年代に入ると、核家族化による住居の狭さや、マンションなど高層建築に住む人の増加などで葬儀専門ホールの必要性が感じられるようになってきた。特に、マイカー時代の到来で会葬様式が変化し、駐車場を完備した斎場建設の検討を始める。
1977年(昭和52年)2月、井上哲二は12年前に設立した有限会社井上葬儀を株式会社いのうえに改組。
1985年(昭和60年)4月30日、2代目・井上哲二が会長になり、井上峰一が3代目の代表取締役社長に就任。
1990年(平成2年)6月に株式会社いのうえ総本社・エヴァホール倉敷が完成。西日本随一の規模となり数々の葬儀、法要が営まれ、全国でもトップクラスにランクされるようになる。
1997年(平成9年)4月、会報誌『儀礼文化』を創刊。現在では「綜合葬祭式場エヴァホール」、「家族葬のファミリエ」、「自浄庵」を岡山県内にグループ全体で19の葬祭場を展開する。その他のグループ会社として仏具店の株式会社鵬林やペットのセレモニーを行う「ペットピア」を展開している。
2013年(平成25年)創業100年を迎える。
2021年8月(令和3年)グループ会社の持株会社として株式会社イノウエホールディングスを発足。
2023年(令和5年)創業110年を迎える。
社是
1. 私たちは何よりも人の命を尊び人の心を大切にします。
1. 私たちはあらゆる人の幸福と繁栄を願います。
1. 私たちは地域社会の発展のため貢献します。
1. 私たちは儀礼の心を育み後世に伝承します。
1. 私たちは自らを磨き職務に誇りをもって業務を遂行します。
社長訓
1.返事と同時に行動せよ
2.自分がやらねば誰がやる
3.今やらねば何時できる
4.24時間仕事と思え
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