コンラート3世 (ケルンテン公)とは? わかりやすく解説

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コンラート3世 (ケルンテン公)

(Conrad III, Duke of Carinthia から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 05:57 UTC 版)

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コンラート3世
Konrad III.
ケルンテン公
在位 1056年 - 1061年

死去 1061年
家名 エッツォ家
父親 ツュルピッヒガウ伯ヘツェリン1世
母親 ケルンテン公コンラート1世の娘?
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ケルンテン公コンラート3世(Konrad III., Herzog von Kärnten, ? - 1061年)またはクーノ(Kuno)[1]は、ケルンテン公[1][2]およびヴェローナ辺境伯(在位:1056年 - 1061年)。

生涯

コンラートはツュルピッヒガウ伯ヘツェリン1世の息子でロートリンゲン宮中伯ハインリヒ1世の弟である[3]。母はザーリアー家ケルンテン公コンラート1世の娘ではないかと考えられている[3]

1055年、コンラートは一族の元バイエルン公コンラート1世ヴェルフ家ケルンテン公ヴェルフ3世の皇帝ハインリヒ3世に対する反乱に加わった。それにもかかわらず、1056年にハインリヒ3世が死去した後、ハインリヒ3世の皇后アグネス・フォン・ポワトゥーによって赦され、ケルンテン公位を与えられた[1]。しかし、コンラートはケルンテンに基盤を持たず、在地貴族に支配を及ぼすことができなかった[4]。コンラートはケルンテンに根付くことができないまま、公位を与えられて5年後に死去した。ケルンテン公位はツェーリンゲン家ベルトルト2世に与えられた[5]

脚注

  1. ^ a b c 瀬原、p. 286
  2. ^ Robinson 1999, p. 35.
  3. ^ a b Jackman 2012, p. 16.
  4. ^ 瀬原、p. 290
  5. ^ ツェーリンゲン家のベルトルト2世は母后アグネス・フォン・ポワトゥーとの間で、ケルンテン公位が空位になった時は公位をツェーリンゲン家に与えるという約束を交わしていた(瀬原、p. 290)。

参考文献

  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • Jackman, Donald C. (2012). The Kleeberg Fragment of the Gleiberg County. Editions Enplage.
  • Robinson, I. S. (1999). Henry IV of Germany 1056-1106. Cambridge University Press.
先代:
ヴェルフ3世
ケルンテン公
1056年 - 1061年
次代:
ベルトルト2世



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