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辛祥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/12 09:36 UTC 版)

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辛 祥(しん しょう、464年 - 518年)は、北魏官僚軍人は万福。本貫隴西郡狄道県

経歴

辛鳳達(辛紹先の子)の子として生まれた。司州の秀才に挙げられた。司空行参軍となり、主簿に転じた。太傅元丕并州刺史となると、辛祥は元丕の下で府属となり、建興郡太守の任を代行した。咸陽王元禧の妃が辛祥の妻李慶容の妹であったため、501年景明2年)に元禧が反乱を起こすと、親族の多くは失脚したが、辛祥はひとり連座を免れた。并州平北府司馬に転じた。刺史が喪中にあり、辛祥は代わって并州の事務を代行した。辛祥が并州の司馬だったとき、白壁の帰還兵の薬道顕が誣告を受けて賊とされたが、辛祥は道顕を弁護する上申をした。1月あまりして、別に真犯人が捕らえられた。

後に郢州龍驤府長史に任じられ、義陽郡太守を兼ねた。508年永平元年)、豫州懸瓠の城民の白早生が反乱を起こし、南朝梁が反乱を支援すべく兵を出したため、淮水流域の駐屯地は相次いで梁に降ったが、ひとり辛祥が城を堅守していた。ときに梁の将軍の胡武城・陶平虜が郢州の南の金山の上に陣営を連ねて進攻してきた。辛祥は偽って後退して梁軍を油断させ、梁軍が備えを怠ったところを夜襲して撃破した。陶平虜を捕らえ、胡武城を斬って、郢州から梁軍を駆逐した。論功により勲功は郢州刺史の婁悦より上とされ、婁悦はこのことを恥じて、辛祥を刺史とするよう上奏したが、その人事は行われなかった。

511年(永平4年)、劉龍駒が華州で乱を起こすと、辛祥は永安王元燮の下で華州征虜府長史となり、別将として討胡使の薛和とともに劉龍駒を討ち滅ぼした。518年神亀元年)、死去した。享年は55。529年永安2年)、冠軍将軍・南青州刺史の位を追贈された。

子女

  • 辛琨(字は懐玉、相州倉曹参軍、陳郡太守・軽車将軍・済州征虜府長史)
  • 辛懐仁(武定末年に長楽郡太守)
  • 辛賁(字は叔文、北中府中兵参軍・員外散騎侍郎、修起居注、済州撫軍府長史、膠州車騎府長史、平東将軍、咸陽王元坦の下で太師開府長史、闕郡太守)
  • 辛烈(字は季武、太傅東閤祭酒、梁州鎮南府長史)
  • 辛匡(字は季政、封丘県令・威烈将軍、平遠将軍・符璽郎中、龍驤将軍・通直散騎侍郎)

伝記資料

  • 魏書』巻45 列伝第33
  • 北史』巻26 列伝第14



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