ヴィルヘルム4世 (ヴァイマル伯)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヴィルヘルム4世 (ヴァイマル伯)の意味・解説 

ヴィルヘルム4世 (ヴァイマル伯)

(ヴィルヘルム4世_(ヴァイマール伯) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 03:27 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ヴィルヘルム4世
Wilhelm IV.
ヴァイマル伯
マイセン辺境伯
テューリンゲン辺境伯
在位 ヴァイマル伯1039年 - 1062年
マイセン辺境伯1046年 - 1062年

死去 1062年
家名 ヴァイマル家
父親 ヴァイマル伯ヴィルヘルム3世
母親 オーダ・フォン・ラウジッツ
テンプレートを表示

ヴィルヘルム4世(Wilhelm IV., 生年不詳 - 1062年)は、ヴァイマル伯(在位:1039年 - 1062年)、マイセン辺境伯(在位:1046年 - 1062年)、テューリンゲン辺境伯(在位:同)。ヴァイマール伯ヴィルヘルム3世とラウジッツ辺境伯ティートマール2世の娘オーダの子。

生涯

マイセン辺境伯エッケハルト2世が亡くなると、マイセン辺境伯領を授けられた。さらに彼は、母オーダがオストマルク辺境伯デード2世と再婚して継息子となっていたため、オストマルク辺境伯の地位をも与えられていたと推測され、そうであれば、エッケハルト1世がその手中にしていた地位のすべてを、彼が引き継いだことになる(継父デード2世はエッケハルト1世の娘マティルデの息子)。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の死後は未亡人アグネスに忠実に仕え、その名声を高めた。彼はハンガリーエンドレ1世を助け、その弟ベーラ1世にむかう軍の総指揮官となり、ナウムブルク司教エッポが補佐にあたった。しかし、ヴィーゼルブルクの近くで奇襲を受け抵抗を試みたが、両指揮官とバイエルン伯ボートは捕虜の身となってしまった。だが、ヴィルヘルムの勇敢さに感銘を覚えたベーラ1世の息子ゲーザは彼を解放するばかりか、娘のゾフィーと結婚させるようベーラ1世を説き伏せた。翌1062年にヴィルヘルムが帰途に病を患い亡くなったため、ゾフィーは家に連れ戻された。子が無かったため、遺領は弟のオットーが相続した。

参考文献

先代:
エッケハルト2世
マイセン辺境伯
1046年 - 1062年
次代:
オットー



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ヴィルヘルム4世 (ヴァイマル伯)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヴィルヘルム4世 (ヴァイマル伯)」の関連用語

ヴィルヘルム4世 (ヴァイマル伯)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヴィルヘルム4世 (ヴァイマル伯)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヴィルヘルム4世 (ヴァイマル伯) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS