ポール・フランドランとは? わかりやすく解説

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ポール・フランドラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/26 04:06 UTC 版)

ポール・フランドラン
Paul Flandrin
Francesco Raffaello Santoroによる肖像画
生誕 (1811-05-28) 1811年5月28日
フランス、リヨン
死没 1902年3月8日(1902-03-08)(90歳没)
フランス、パリ
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ポール・フランドラン(Paul Jean Flandrin、1811年5月28日 - 1902年3月8日)は、フランスの画家である。おもに風景画を描いた。

略歴

リヨンで、工芸画家の息子に生まれた。兄のオーギュスト・フランドラン(Auguste Flandrin: 1804-1842)とイポリット・フランドラン(1809-1864)も画家になった。

リヨンの風景画家、アントワーヌ・デュクロー(Antoine-Jean Duclaux: 1783-1868)や彫刻家のジャン=フランソワ・ルジャンドル=エラル(Jean-François Legendre-Héral)に学び、リヨン国立高等美術学校パリ国立高等美術学校で学び、ドミニク・アングルの工房でも学んだ。

ローマ賞のコンクールに2度参加し、入賞することはできなかったが、1832年にローマ賞を受賞した兄のイポリット・フランドランのローマ留学に自費で同行した。ポール・フランドランはローマに4年間滞在し、古典的な風景画を学んだ。1838年からパリのサロンに出展し、兄のイポリット・フランドランの歴史画の背景の風景部分を描くこともあった。兄のオーギュスト・フランドランからは版画を学んだ。1844年にサン・セヴラン教会(Église Saint-Séverin de Paris)の壁画も描いた。

1852年に風景画家アレクサンドル・デゴッフ(Alexandre Desgoffe: 1805-1882) の娘と結婚した。夫妻の子孫には息子の建築家ジョゼフ・フランドリン(Joseph Flandrin:1857-1939)や画家の孫マルテ・フランドリン(Marthe Flandrin: 1904-1987)がいる[1]

作品

脚注

参考文献

  • Emmanuelle Brugerolles (dir.), Ingres et ses élèves, Carnets d’études 39, Beaux-arts de Paris éditions, 2017.
  • Hans Vollmer: Flandrin, Jean Paul. In: Ulrich Thieme (Hrsg.): Allgemeines Lexikon der Bildenden Künstler von der Antike bis zur Gegenwart. Begründet von Ulrich Thieme und Felix Becker. Band 12: Fiori–Fyt. E. A. Seemann, Leipzig 1916, S. 74–75 (Textarchiv – Internet Archive).



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