オルシーノ・オルシーニとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > オルシーノ・オルシーニの意味・解説 

オルシーノ・オルシーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/21 03:08 UTC 版)

オルシーノ・オルシーニ・ミリオラーティOrsino Orsini Migliorati, 1473年 - 1500年)は、イタリアの貴族。教皇アレクサンデル6世の愛妾ジュリア・ファルネーゼの最初の夫。

ヴァザネッロの領主ルドヴィーコ・オルシーニ・ミリオラーティ(1425年 - 1489年)と、その妻アドリアーナ・デ・ミライタリア語版の間の子。父は教皇インノケンティウス7世の兄弟の孫にあたり、兄弟にコズマ・オルシーニ英語版枢機卿がいた。母アドリアーナはボルジア家の一員であり、教皇カリストゥス3世の甥孫(甥の娘)だった。母は従叔父でボルジア家の総帥であったロドリーゴ・ボルジア枢機卿の腹心となり、その娘ルクレツィア・ボルジアの養育係を引き受けた。アドリアーナは1489年に夫と死別して以降、息子の相続領を守るために、ますますロドリーゴの庇護に頼るようになった。オルシーノ自身は斜視で人付き合いを嫌う内気な少年だった。

1489年5月21日、16歳のオルシーノはモンタルト・ディ・カストロの領主の娘で15歳のジュリア・ファルネーゼと結婚する。1491年頃、ロドリーゴ枢機卿はオルシーニ家の邸宅モンテ・ジョルダーノイタリア語版に滞在中の娘ルクレツィアを訪ねた際、美しいジュリアを見初め、アドリアーナに指図してジュリアを自分の愛妾とした。ロドリーゴは妻を奪ったことに対する補償として、オルシーノにカルボニャーノの領主権を授けた。ロドリーゴは1492年8月に教皇アレクサンデル6世となり、同年11月にジュリアは女児を出産した。ジュリアの娘の父親は教皇か夫なのかは当時も、そして現在も議論の的となっている。ジュリア自身は娘を教皇の子だと後に主張したものの、教皇は女児誕生時、スキャンダルを避けるため父親であることを否認し、オルシーノに女児を認知させた。娘はラウラ・オルシーニの名を与えられた。

オルシーノは1500年頃、27歳と比較的若く世を去った。死因は不明である。妻ジュリアと教皇は同時期に男女の関係を円満に解消した。母アドリアーナは教皇及びルクレツィアの腹心であり続けた。カルボニャーノの管理権及びオルシーニ家伝来の広大な所領は、アドリアーナ、ジュリア、ラウラの順に引き継がれ、その後、オルシーニ家の同族と結婚したラウラの娘ラヴィニア・デッラ・ローヴェレの子孫が引き継いだ。

参考文献

  • Bellonci, Maria. The Life and Times of Lucrezia Borgia.
  • Williams, George. L. Papal Genealogy: The Families and Descendants of the Popes.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  オルシーノ・オルシーニのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「オルシーノ・オルシーニ」の関連用語

オルシーノ・オルシーニのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



オルシーノ・オルシーニのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのオルシーノ・オルシーニ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS