青年イタリア
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青年イタリア(せいねんイタリア)、青年イタリア党[1]、あるいはジョーヴィネ・イタリア(イタリア語: Giovine Italia)は、1831年にジュゼッペ・マッツィーニが結成した政治結社である。カルボナリ衰退後のイタリア統一運動の中心を担い、共和主義によるイタリア統一を企てて反乱を繰り返したが、弾圧を受けて凋落した。
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『青年イタリア党』 - コトバンク
- ^ ライモンド・ドーリア侯は、カルボナリのスペイン支部で絶大な影響力を振るっていた人物である。マッツィーニは彼に命じられ、カルボナリへの入党志願者へ入党の儀式を執り行ったが、このとき既にライモンド・ドーリア侯は警察側に寝返っており、「志願者」は警察の手の者であった。入党式の数日後、マッツィーニは一部の同志と共に逮捕された。
- ^ 藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』講談社選書メチエ、2012年8月10日。
- ^ 革命の旗手として王を戴くとするこの書簡は、共和制を志向する青年イタリアの行動原理と矛盾するが、マッツィーニはのちに、「書簡はアルベルトに対する人々の幻想を破壊するために書いたに過ぎず、アルベルトが反発するであろうことは承知の上であった」と述べている。しかし、兵力を与えてくれるならば王制を受け入れてもよいとする手紙も残されており、アルベルトにわずかながら期待をしているようにもとれる。マッツィーニの真意がどこにあるのかについては、現在に至るまで様々な憶測がなされている。
- ^ モデナのカルボナリを率いる豪商チーロ・メノッティ(Ciro Menotti、1798年 – 1831年)は、1831年2月に武装蜂起を企てたが、オーストリア軍の前に敗れ去った。助力を期待していたモデナ公フランチェスコ4世 (Francesco IV) の裏切りに遭ってメノッティは捕らえられ、モデナで処刑された。ボローニャやパルマでも同様に蜂起がなされたが、やはりオーストリア軍に鎮圧された。以後、カルボナリは解体へと向かい、青年イタリアに取って代わられた。
- 1 青年イタリアとは
- 2 青年イタリアの概要
- 3 組織名
- 4 年表
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