青州時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 16:00 UTC 版)
初めは東萊郡の官吏を務めた。郡と青州が確執を起こした際、都へ郡の上奏を届けた。この時、機転を利かせて州側の上奏を切り破り、郡に有利な処分を引き出した。このため州から疎まれ、遼東郡に逃走した。この留守の間、彼の母の面倒を孔融が見たという。その恩に報いるため、孔融が黄巾軍の残党である管亥に攻められた時、太史慈は救援に駆けつけた。しかし管亥の攻撃は激しかった。そこで太史慈は、城外で弓の練習を始め敵兵の注目を集めた。それを何日も繰り返して、敵兵も「また練習だろう」と興味を持たなくなったところを、一気に単騎で敵の包囲網を突破し、平原相を務めていた劉備に救援要請の使者として赴いた。援軍が駆けつけると賊兵は囲みを解いて逃げ去った。救出された孔融は、以前にも増して太史慈を尊重し「あなたは我が若き友だ」と称揚した。一連の事態が収まると太史慈は母親にこのことを報告した。母親も「あなたが孔融殿に恩返しできたことを嬉しく思います」と太史慈を讃えた。
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