集慶攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:44 UTC 版)
至正15年(1355年)、朱元璋軍は長江南岸に渡り、元朝の支配する太平(安徽省馬鞍山市当塗県)を占領した。その際、馮国用を典親兵(親衛隊長)に任命した。 この頃、元軍の武将陳埜先が朱元璋に投降していたが、馮国用は彼が裏切ることを見抜いており、果たして謀反を起こしたためこれを討った。陳埜先の後を子の陳兆先が継いで反抗を続けたため、馮国用は一軍を率いて敵の陣地を破り、陳兆先とその部下3万余人を捕虜とした。この時、捕虜となった者達の動揺が収まらなかったため、朱元璋は一計を案じ、捕虜から無作為に500人を選び、馮国用ただ一人を侍らせてその者達の中で眠ったため、捕虜達は皆、朱元璋に心服したという。集慶占領後、馮国用は親軍都指揮使に抜擢される。ところがその直後、数え36歳で死んでしまった。朱元璋は慟哭し、天下を取った後もその功を忘れず、功臣廟に第8位の功臣として奉った。
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