部下への配慮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
天正元年(1573年)8月に越中国と加賀国の国境にある朝日山城を攻めた際に、一向一揆による鉄砲の乱射を受けて謙信は一時撤退を命じたが、吉江景資の子・与次だけは弾が飛び交う中で奮戦して撤退しようとしなかったため、謙信は与次を陣内に拘禁した。驚いた周辺は与次を許すように申し入れたが、謙信は「ここで与次を戦死させたら、越後の父母(吉江景資夫妻)に面目が立たなくなる」とこれを拒んで、事情を吉江家に伝えている。与次は間もなく許されて、急死した中条景資の婿養子となって中条景泰と改名した。
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