道深法親王とは? わかりやすく解説

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道深法親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 14:52 UTC 版)

道深法親王(どうしんほうしんのう、建永元年9月4日1206年10月7日〉 - 建長元年7月28日1249年9月6日〉)は、鎌倉時代前期の皇族。後高倉院(守貞親王)の第二皇子。母は北白河院(持明院陳子)。後堀河天皇の実兄。金剛定院御室と称された。


注釈

  1. ^ 元暦元年(1184年)、守覚は重病を理由に35歳で当時19歳の道法法親王(異母弟)に伝法灌頂を授け、その28年後には47歳の道法が同様の理由で当時17歳の道助にを授けている。
  2. ^ 後高倉院の皇統が断絶したことで後鳥羽院の皇統から分離した傍流の後嵯峨天皇の皇統が成立したが道深に代わって御室を掌握させる適任者に欠いたらしく、後嵯峨天皇の皇子である性助入道親王は法助の弟子という形で仁和寺に入るのは、道深の没後の正嘉元年(1257年)のことで、それからわずか1年で御室の地位に就いている[14]

出典

  1. ^ 曽我部、2021年、P79.
  2. ^ 『明月記』嘉禄3年12月1日条
  3. ^ a b c d 曽我部、2021年、P80.
  4. ^ 曽我部、2021年、P80.
  5. ^ 曽我部、2021年、P83.
  6. ^ 曽我部、2021年、P80-81.
  7. ^ 曽我部、2021年、P81-82.
  8. ^ 曽我部、2021年、P82-83.
  9. ^ 曽我部、2021年、P91-95.
  10. ^ 曽我部愛「後高倉王家の政治的地位」(初出:『ヒストリア』217号(2009年)/所収:曽我部『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7)2021年、P24-26.
  11. ^ 曽我部、2021年、P83-84.
  12. ^ 曽我部、2021年、P84・95.
  13. ^ 曽我部、2021年、P88-91.
  14. ^ 曽我部、2021年、P90・97.


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