山岳ベース事件とは? わかりやすく解説

山岳ベース事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/03 22:44 UTC 版)

山岳ベース事件(さんがくベースじけん)とは、1971年から1972年にかけて連合赤軍群馬県の山中に設置したアジト(山岳ベース)で起こした同志に対するリンチ殺人事件。


注釈

  1. ^ 「日本共産党」を冠してはいるが日本共産党とは無関係。
  2. ^ 当時、この事件は両派幹部内での秘密であったが、革命左派の被指導メンバーには「処刑」に感づいていた者がいたとされている。
  3. ^ メンバーの一人は暴行を加える際に「俺のことを小ブル主義者と呼んだだろ」と口走ったことで、個人的な怨みで暴行を行っているとされ、総括要求された。
  4. ^ 第一審判決の判決文では事件中の1971年12月〜1972年2月の気温として榛名ベース付近では「最低気温は殆ど連日零度を下回って中には氷点下九度にも達し」、迦葉ベース付近では「朝八時の気温は連日零度以下が多く、時に氷点下一一度にも達し」、妙義山ベース付近では「零度以下の日がかなりあった」ことが観測されていると指摘されている。
  5. ^ 脱走したメンバー4名も1972年3月中に全員警察に出頭・逮捕された。
  6. ^ 上赤塚交番襲撃事件で死亡した柴野春彦。
  7. ^ 山岳ベースのこと。
  8. ^ 逮捕されたメンバーの支援等を行う組織。当初Hは当時逮捕されていた吉野の支援のため革命左派に関わり始めた。
  9. ^ 1971年2月の真岡銃砲店襲撃事件により永田や坂口・吉野・Fらが指名手配され、彼らは札幌での潜伏生活を余儀なくされていた。翌3月、永田は日本国内では銃の訓練も出来ないとして中国に拠点を作って日本へ再来日する方針を打ち出した。札幌潜伏メンバーは当初は反対したが永田がこの方針を改めようとしなかったため渋々合意したものの、この時都内にいたHら当時の合法部メンバーが反対して実現に至らなかった。4月に他の潜伏メンバーに先んじて再上京した永田と坂口は都内の赤軍派のアジトやシンパの家を警察の目を気にしながら転々とする中で消耗し、人里離れた山岳にアジト(山岳ベース)を作るという案を坂口が提案したことにより「根拠地問題」は解決した。
  10. ^ 元赤軍派メンバーの証言によれば、合法部時代のDは元々質素な格好をしており、それが入山前のDに会った際にいままでしていなかった化粧をするなど見た目に大きな変化があったという。彼はこのことからDの山での派手な身なりは「彼女なりの偽装」だったのではないかと指摘している。[17]
  11. ^ 京浜安保共闘と革命戦線はそれぞれ革命左派と赤軍派のデモや勧誘活動などの合法活動を行う組織で、永田や森らが所属する非合法部隊である「軍」とは切り離されていた。ここで「革命左派と赤軍派」とされたことは軍部も含めた主催ということになり、これを独断で決められたことは彼らにとっては重大な問題であった。
  12. ^ 赤軍派は国際的に一斉蜂起し世界各国が同時に革命を起こすという世界同時革命論、革命左派は毛沢東思想に基づき一国だけでも革命を成し遂げられるという一国革命論を主張しており、根本的な路線の齟齬が多かった。合同軍事訓練前の両派の会議においてもその点が触れられていたが結論は出ていなかった。とりわけ革命左派が一国革命論に基づいて掲げていた「反米愛国」の思想に森は強く否定的だったとされる。
  13. ^ 森・永田・坂口・F・吉野・坂東による指導部会議メンバーの中で唯一の独身メンバーだった。
  14. ^ 岩田によると、永田や坂口の指導に疑問を持ち始めていた岩田が中心となって書き、Gが添削して完成したものだったという。これにIとdが同意の意を示したが、前澤とfの「乱入」により非合法部に不満を募らせた合法部メンバーの合意は取り付けられなかったという。[42]
  15. ^ 吉野は「逮捕後知ったこと」として、Iは完全に合法メンバーの意見に賛同し、「弟らを取り戻す」とさえ語って山に戻っていたことを明かしている[43]
  16. ^ 森による造語。坂口によると「指導部による路線闘争を軸とした党建設を強調するものであり、上部による指導性を重視するもの」。[44]
  17. ^ 坂口によれば「反対派との暴力的党派闘争を徹底的に行うべきだった」という考えだという[46]
  18. ^ 永田の証言では、JにIから夜な夜な変なことをされると訴えられたとある[59]。森は以前の2人の接吻についてJが「そうされた」とした、としている。
  19. ^ 永田はIを縛るよう指示したのは自分ではないと否定。
  20. ^ 森はそれが具体的にどういうことかは説明しなかった[77]
  21. ^ 坂口の手記では「手が腐らないか?」と心配した森に対して永田が「腕の一本や二本切り落とすことになっても、革命戦士になれればいいのよ」と言ったとされている[81]
  22. ^ 吉野、F、k、J、G、H、c
  23. ^ 赤軍派創設時からのメンバーで、森と反目し合う形で中東に渡り、後に日本赤軍を結成。
  24. ^ 永田と坂口を党の責任者から外し、永田を機関紙編集専従、坂口を合法部統括、F自身を軍の委員長と党の責任者にするというもの。永田に反論されすぐに撤回した。
  25. ^ 警察・政府などの「国家権力」のこと。
  26. ^ Fが「寝ることを夢想する」相手として最初にGの名を挙げ、それに反発したことを指すと思われる。
  27. ^ 坂口と青砥以外の証言では森が刺したことになっているが、坂口と青砥によれば最初にCの胸を刺したのは坂口であるという。後の裁判においても、Cの胸を最初に刺した人物を坂口と証言したのは坂口自身と青砥のみで、他の当事者は森が刺したと証言したという。坂口自身も一審では自身が刺したことを否定していたが、控訴審から認める証言をしたが、第一審も控訴審でもCの胸を最初に刺したのは森とされている。坂口によればCの絶命後に永田が坂口に「よくやったわねぇ」と言ったという。[81]
  28. ^ LはCの「処刑」の際足を押さえていた。
  29. ^ Gはこの接触の際のnの言動から警察へのベース発覚を危惧し、永田にnの言動を「共通の友人から聞いた話」として報告しnの殺害を提起した。
  30. ^ Hの子供を取り出す計画が書かれており、これを読んだ坂口は絶句し、子供の父親である吉野には見せずに燃やしてしまったという[46]
  31. ^ Aは元々赤軍派の政治局員で赤軍派における当初の立場は森より上であった。その後逮捕・釈放を経て、組織をしばらく離れた後、1971年の秋に「一兵卒からやり直す」として赤軍派に復帰した。
  32. ^ Lが妻であるhとともに山岳ベースに連れてきていた乳児。L夫妻は本事件が進行していく過程でこの子供との接触を制限されていたという。
  33. ^ 実際にAを再び縛ったのは坂東ではなかったが坂口は「坂東が縛ったようなもの」と考えこう答えたという[81]
  34. ^ 坂口たちは森と永田が妙義ベースに向かっていたことを知らなかった。
  35. ^ この時坂口たちは警察官に「アベックを見かけませんでしたか?」と尋ねられたが、森と永田の逮捕を報じるラジオのニュースを聞くまでその「アベック」が森と永田を指すことに気がつかなかった[46]
  36. ^ 加藤倫教の手記では坂口による森と永田の結婚に関する言及があったのは坂口が永田との離婚を受けて妙義ベースに戻った時とされている。加藤の手記ではこの時に坂口が「自分は辛いが運動の発展のために受け入れる」と発言したとされる[58]
  37. ^ 坂口はこの一件を「山岳ベースで闘争意欲を失っていた吉野」、「傷つきながらも闘争意欲はあった坂口」、「そもそも傷ついていなかった坂東」の意識の違いによるものと後に分析している。[209]
  38. ^ 最高指導者である川島豪が掲げた革命左派の中核となる思想。
  39. ^ 上赤塚交番襲撃事件真岡銃砲店襲撃事件は獄中にいた川島の奪還指示に従って起こされた事件で、これにより永田らは指名手配され、山岳ベースを拠点とするに至った。
  40. ^ 1971年11月に森ら赤軍派中央部がPFLPを一方的に批判してきたことをきっかけに訣別していた[224]
  41. ^ 森が統一公判参加を一方的に呼びかけた青砥ら連合赤軍メンバー
  42. ^ Aの妻
  43. ^ 統一公判への合流を希望していた加藤倫教であったが、一度却下され、この時は参加できなかった。加藤が「統一公判でなければ出廷しない」と通告したこともあり、1974年5月より統一公判に合流することとなった。[58]
  44. ^ 公判中の長期間に渡って頭痛をはじめとする症状を訴えてきた永田は、その後松果体部腫瘍による脳圧亢進症が発覚し1984年7月にシャント手術を受けている。
  45. ^ 森と永田。同判決では「総括の恐怖におののき、ひたすら恭順の意を示して命令に盲従していた」のは「坂口すら例外ではなあり得なかった」としている。
  46. ^ 吉野と加藤倫教
  47. ^ 証言にはBの本名が入る。
  48. ^ iは事件当時16歳の少年だった。
  49. ^ 赤軍派出身で日本赤軍を結成しDの親友でもあった重信房子は、潜伏先の大阪で別の視察対象者を尾行していた公安警察に目撃されたタバコの吸い方の癖をきっかけに身元が割れ、2000年に逮捕された。
  50. ^ Eは青砥が上京した翌日に死亡。青砥はEの死を知らないまま1月中旬に榛名ベースに戻った。

出典

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