西帝自称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:33 UTC 版)
紀元前292年、魏冄が病のために請うて宰相を辞めた。そこで客卿の燭寿を宰相とした。しかし翌紀元前291年に燭寿を罷免し魏冄を再び宰相とした。この際に魏冄は穣の地に封じられ、穣侯と号するようになる。 この年、左更であった司馬錯に命じ、魏を討たせ、魏の軹と鄧の地を取った。そこで弟の公子巿(涇陽君)を宛に、同じく弟の公子悝(高陵君)を鄧に、魏冄を陶に増封した。以降魏冄は陶侯とも号するようになる。 紀元前290年も引き続き魏を討った。魏は河東の地、方四百里を献じて講和を求めたが受け入れず、魏冄は魏の河内を攻略し、60余りの城を陥れることに成功した。 紀元前289年も引き続き魏を討った。司馬錯・白起に命じて、垣・河雍・決橋を攻めてこれらを取った。 増強する国力を背景に紀元前288年に昭襄王は西帝を称した。魏冄を斉に遣わして斉の湣王に東帝の帝号を贈ったが、斉がすぐに帝号を捨てたので、昭襄王もとりやめた。
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