藤村義朗 (海軍軍人)とは? わかりやすく解説

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藤村義朗 (海軍軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/18 22:53 UTC 版)

藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年明治40年)2月24日 - 1992年(平成4年)3月18日)は、日本海軍軍人実業家。最終階級は海軍中佐。旧名・義一(よしかず)。


  1. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、659頁。
  2. ^ 竹内、2005年、p31。海のないスイスには海軍は公式の駐在武官を置いていなかった。スイスは日本海軍からの駐在武官室設置の要請は拒絶したが、1944年以降公使館に海軍の将校を駐在させることは容認した(下記外部リンク「日瑞関係のページ」内「スイス和平工作の真実(第一部)」を参照。海軍がスイスに正式な駐在武官室を置かなかったことは、立川京一「我が国の戦前の駐在武官制度 (PDF) 」『防衛研究所紀要』第17巻1号、2014年でも確認できる(pp.128 - 131を参照))。西原の肩書も「公使館付海軍問題顧問」だった。藤村は戦後「スイス公使館付海軍武官」だったと書いているが正確な記述ではない。
  3. ^ a b c d e f 有馬、2014年(1)
  4. ^ 大木、1995年
  5. ^ a b 有馬、2014年(2)
  6. ^ 日本テレビ「太平洋戦争秘話『緊急暗号電、祖国ヨ和平セヨ!』 ―欧州から愛をこめて―」1975年12月18日(大森実『戦後秘史』が原作)。この放送内容を巡り、小島秀雄は「事実と違う」と記した文章を発表し、それに対して藤村が「謝りに来た」と小島は『海軍反省会』で述べている(下記外部リンク「日瑞関係のページ」を参照)。
  7. ^ 日本テレビ「知ってるつもり?!」2000年5月28日放送分『消えた潜水艦とたった一人の和平工作』[1]
  8. ^ 竹内、p.32、48
  9. ^ 竹内、p.32。藤村の戦後の証言は『昭和史の天皇』(読売新聞社)からの引用
  10. ^ 竹内、p.31
  11. ^ 有馬2014年(1)。有馬は「藤村は西原に隠れて暗号電報を打ったこともあった」とも記している。
  12. ^ 外部リンク「日瑞関係のページ」に、この回想について言及されているが、この中には逆に藤村の名前は全く出てこないと記されている。
  13. ^ 竹内、2005年、pp.48- 49
  14. ^ 後述の高木惣吉の当時のメモには「対日戦が7月下旬までに終了せざるときは「ソ」は対日行動開始を提案、ルーズベルトは対「ソ」協調政策上同意」とある。
  15. ^ NHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」(2012年8月15日放映)[2]
  16. ^ 吉見、2013年、pp.35 - 41。著者は前記NHKスペシャルのスタッフである。
  17. ^ 外部リンク「日瑞関係のページ」およびNHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」および、吉見2013年、p.270による。
  18. ^ 高木のメモには「米内大臣の考」として「(1)黙殺 (2)謀略的申入れの疑あり (3)彼に対するワシントンの返事を待って様子を見ても遅くなし」(原文はカタカナ)と記されている。
  19. ^ 吉見、2013年、pp.270 - 271
  20. ^ a b 竹内、2005年、p.50
  21. ^ 竹内、2005年、pp.73 - 74
  22. ^ 竹内、2005年、p.118
  23. ^ 竹内、2005年、pp.131 - 132、136 - 137
  24. ^ 竹内、2005年、p.174。この電報はアメリカの「マジック・サマリー」による。
  25. ^ 竹内、 2005年、pp.197 - 198
  26. ^ 加瀬俊一「瑞西における<ダレス>工作」pp.36-37
  27. ^ 竹内、2005年、pp.52 -56。なおこの本ではヤコブソンの名前を「ペル・ヤコブソン」と表記している。
  28. ^ a b c d e 下記外部リンク「日瑞関係のページ」を参照。
  29. ^ 竹内、2005年、pp.47 - 48
  30. ^ 竹内、2005年、pp.70 - 72
  31. ^ この時点では岡本・北村・加瀬らによる和平工作は始まったばかりだったことに留意する必要がある。
  32. ^ 竹内、2005年、pp.244 - 246。竹内は藤村が打った電報の数を「何通か」と記しているが、下記外部リンクのCIAライブラリーの原文では明確に7通と記されている。
  33. ^ 有馬、2014年(1)。この内容は『証言録 海軍反省会5』(PHP研究所、2013年)からの引用。
  34. ^ 有馬、2014年(1)。この内容は『証言録 海軍反省会3』(PHP研究所、2012年)からの引用。
  35. ^ 下記「日瑞関係のページ」。なお、このウェブサイトによるとベルリン海軍武官室の阿部勝雄中将から1945年4月12日付で海軍次官・軍令部次長宛に発信した「藤村中佐と津山嘱託は四月六日スイス到着。この日を以って当地の任務を解除した。スイス勤務の辞令の発令を請う」との電文が(アメリカの傍受により)残されているとある。
  36. ^ 大木、1995年。ただし一次資料での裏付けは取れていないことを大木も認めており、下記外部リンク「日瑞関係のページ」はその点も含めこの内容の信憑性に否定的な見解を示している。
  37. ^ 竹内、2005年、p51


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