薬師寺尊正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/06 10:27 UTC 版)
薬師寺 尊正(やくしじ たかまさ[1][2]、1893年(明治26年)5月17日[1] - 1985年(昭和60年)12月8日[1][2])は、日本の弁護士。日本にバスケットボールやバレーボールが紹介された最初期に両競技の選手として活動。大日本体育協会主事を務め、バスケットボールとバレーボールの普及に努めた。第二次世界大戦後に東京都目黒区で人権擁護委員などの役職を務め、区政に貢献したことから、名誉区民として顕彰されている。
注釈
- ^ 薬師寺久兵衛家は江戸・東京で薪炭商「酒井屋」を営んでいた家である[4][5]。薬師寺家のルーツは常陸国新治郡牛渡村(現在の茨城県かすみがうら市牛渡)で庄屋を務める家であるが、18世紀後半に初代久兵衛が江戸に出、薪炭商を始めた[5]。尊正の舅の久兵衛は分家から養子に入った人物で[4][5]、関東大震災後に薪炭商を廃して地主となった[5]。なお、実業家で易断家の高島嘉右衛門も、牛渡村の薬師寺家をルーツとしている。
- ^ バレーボールは女子スポーツとして普及を見せることとなる[7]。
- ^ 前年の1924年(大正13年)に発生した、学生競技者団体の体協との対立(13校問題)などを背景とする。田代菊之助参照。
- ^ 君塚幸吉(目黒区長)に次ぎ[13]2人目の名誉区民[8][13]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 普及部 2019, p. 32.
- ^ a b c d e f g h “名誉区民 故 薬師寺 尊正氏”. 目黒区. 2023年8月1日閲覧。
- ^ a b c 日本スポーツ協会 1933, p. ヤの部2.
- ^ a b “藥師寺久兵衞 (第4版[大正4(1915)年1月]の情報)”. 『人事興信録』データベース. 2023年8月1日閲覧。
- ^ a b c d e f “藥師寺久兵衞 (第8版[昭和3(1928)年7月]の情報)”. 『人事興信録』データベース. 2023年8月1日閲覧。
- ^ 清川勝行 2001, pp. 31–32.
- ^ a b c 清川勝行 2001, p. 32.
- ^ a b c d e f g h i j k l 普及部 2019, p. 33.
- ^ 森川貞夫 2000, p. 30.
- ^ 普及部 2019, pp. 32–33.
- ^ a b 及川佑介. “李想白について”. 2019年10月9日閲覧。
- ^ a b 及川佑介「科学研究費助成事業 研究成果報告書」『李想白が我が国のバスケットボール界に果たした役割に関する史的研究』、2022年4月30日閲覧。
- ^ a b “名誉区民”. 目黒区. 2023年8月1日閲覧。
- 1 薬師寺尊正とは
- 2 薬師寺尊正の概要
- 3 参考文献
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