若きピアニストとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 01:39 UTC 版)
「ジョアン・カルロス・マルティンス」の記事における「若きピアニストとして」の解説
18歳の時、マルティンスはプエルトリコで行われたカザルス音楽祭に招聘され、この音楽祭に出演した初めてのラテンアメリカ人となった。1961年には21歳でカーネギー・ホールデビューを飾り、その後はヨハン・ゼバスティアン・バッハ作品に取り組んで、世界中のオーケストラと共演したりバッハ作品の録音を発表したりした。1965年にコニサー・ソサエティ(英語版)のレーベルからバッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻・第2巻をリリースした後、マルティンスは1968年にRCAからアルベルト・ヒナステラのピアノ協奏曲を発表した(エーリヒ・ラインスドルフ指揮、ボストン交響楽団共演)。この曲は初めてのアルバム化で、その後数週にわたってビルボードのベストセラーリストに載っていたという。 ところが、若きピアニストとしてデビューしたのも束の間、マルティンスは1965年に右腕の尺骨神経を損傷するという大怪我を負う。この時、かねてより大ファンだった地元のサッカーチーム、アソシアソン・ポルトゥゲーザ・ジ・デスポルトス(ポルトゥゲーザ)が彼の住むニューヨークに遠征してきており、マルティンスはセントラル・パークで行われた練習試合に参加して負傷した。怪我の後もピアニスト活動を続けようとするマルティンスだが、神経損傷後遺症として手指3本が筋萎縮してしまい、1970年までにピアニストとしてのキャリアを諦めることになる。
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