伊賀越え
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伊賀越え(いがごえ)は、畿内より東国へ行く際に伊賀国(現在の三重県西部)を経由して行くことを指す。「伊賀越奈良道#伊賀街道」参照。
- ^ a b c 【みちものがたり】家康の「伊賀越え」(滋賀県、三重県)本当は「甲賀越え」だった?忍者の末裔が唱える新説『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2020年6月13日(6-7面)2021年4月18日閲覧
- ^ a b c d e f g h i 藤田達生「「神君伊賀越え」再考」『愛知県史研究』第9巻、愛知県、2005年、1-15頁。
- ^ a b 桐野作人 2001, pp. 219、<史料は石川忠総の『留書』>
- ^ 谷口克広 2012, pp. 266、以後<史料は石川忠総の『留書』>
- ^ 今谷明 1993, pp. 156–157、以後<史料は石川忠総の『留書』>
- ^ 谷口克広 2012, pp. 268–269.
- ^ “家康の「伊賀越え」、宿泊は寺 滋賀・甲賀の郷土史家、資料発見”. 『京都新聞』. (2015年12月31日) 2016年1月1日閲覧。
- ^ 長太(なご)の大くす【県指定天然記念物】すずかし観光ガイド(2021年4月18日閲覧)
- ^ 今谷明 1993, pp. 157–158.
- ^ 谷口克広 2012, pp. 267–269「和田家文書」所収、甲賀郷士和田定教宛て家康起請文
- ^ a b 上島秀友 2021.
- ^ 「本能寺の変、家康はどう逃げた 通説「伊賀越え」と新説「大和越え」で議論白熱」『京都新聞』。2022年10月24日閲覧。
- ^ a b 「本当は「大和越え」か 家康の伊賀越え真相」『産経新聞』。2022年10月24日閲覧。
- ^ a b 『藩翰譜』訂正. 上
- ^ 高柳光寿『戦国戦記 本能寺の変・山崎の戦』春秋社、1958年、65頁。史料は、フロイス『日本史』『日本耶蘇会年報』。日本側の『石川忠総留書』でも家康が多額の金銀を部下に配分したとある。
- ^ a b 『家忠日記』天正十年六月四日条
- ^ 『東照宮御実紀付録巻四』
- ^ 『信長公記』
- ^ 『信長公記』巻十五「家康公和泉堺ヨリ引取被退事」条、「生害」とある、ただし角川ソフィア文庫版『信長公記』人名中索引pp.484-485では、これをもう1つの言葉の意味の「殺害」だと解釈している。
- ^ 『イエズス会日本年報』「天正11年正月21日付ルイス・フロイス書簡」、雄松堂出版、1969年、2002年。
- ^ 小川稠吉、宇野季次郎『渡会の光』古川小三郎、pp.60-61
- ^ 角屋七郎次郎|朝日日本歴史人物事典
- ^ 闇夜の時代劇 老ノ坂/正体を見る サンライズ(2021年4月18日閲覧)
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