砂沢クラ
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砂沢 クラ(すなざわ クラ、1897年 - 1990年9月29日)は、北海道旭川市近文コタン出身のアイヌ文化伝承者。1983年(昭和58年)、北海道文化財保護功労者として表彰された[1]。
注釈
- ^ アイヌ学校(旧土人学校)について、「私は、いまも、和人たちはアイヌの子供を見せ物にするためにアイヌ学校を作った、と思っています。(中略)アイヌ学校など作らず、アイヌも和人も同じ学校へ通わせたら、全校の生徒がひとつの教室で勉強する必要もなく、アイヌの子供を見に来るお客さんのために勉強が遅れる、ということもなかったでしょう。もっともっとたくさんのアイヌの子供たちが、和人の子供と一緒に上の学校に行き、学問をした、と思います。」と語っている[7]。
- ^ 昭和4,5年頃から、伏古コタンは蜂須賀農場の土地であると言われるようになった。水害、冷害の多い土地でもあったため、伏古コタンの住人たちは、蜂須賀農場より三百円、五百円などのお金をもらってコタンを出ていき、伏古コタンは消滅した[8]。
- ^ 1968年9月2日から東京で開かれた第8回国際人類学民族会議に先立って8月30日に札幌で開催された。アメリカ、カナダ、西ドイツ、ポーランドなどから約60人が参加した[10]。
脚注
- ^ “砂沢クラ”. コトバンク(『デジタル版日本人名大辞典+Plus』、講談社). 2020年12月16日閲覧。
- ^ 砂沢クラ 1990, p. 344.
- ^ “砂沢クラ”. コトバンク(『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年). 2020年12月16日閲覧。
- ^ “国立国会図書館の中の北海道関係曲目リスト”. 北海道立図書館. 2020年12月16日閲覧。
- ^ 金倉義慧 (2006年). “旭川・アイヌ民族の近現代史(平成18年度普及啓発セミナー資料)” (PDF). アイヌ民俗文化財団. 2020年12月16日閲覧。
- ^ “上川第五尋常小学校・豊栄尋常小学校<卒業生>”. アイヌ人小学校の校長先生 佐々木長左衛門. 旭川文学資料館友の会. 2020年12月16日閲覧。
- ^ 砂沢クラ 1990, pp. 94–95.
- ^ 砂沢クラ 1990, pp. 191–192.
- ^ 『旭川市史』第5巻、[要ページ番号]
- ^ 北海道新聞1968年8月31日[要ページ番号]
- ^ “CiNii 浅井 亨”. Cinii. 2020年12月16日閲覧。
- ^ “キロロアン 平成21年度3月”. アイヌ文化交流センター. アイヌ民族文化財団. 2020年12月16日閲覧。
- ^ 砂沢代恵子 (2002年8月20日). “アイヌとして生きるまで(平成14年度普及啓発セミナー資料)” (PDF). アイヌ民族文化財団. 2020年12月16日閲覧。
- ^ “過去の受賞者”. 苫小牧市文化賞・文化奨励賞受賞者. 苫小牧市. 2020年12月16日閲覧。
- ^ “ユカラ(叙事詩):ポイヤウンペ ル ロアイカムイ コトゥミコロ(ポイヤウンペとル ロアイカムイの戦い)解説” (PDF). アイヌ民俗文化財団. 2020年12月16日閲覧。
- ^ “砂沢クラ”. 国会図書館サーチ. 2020年12月16日閲覧。
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