百次の成立と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 07:03 UTC 版)
百次という地名は古くは戦国期より見え、薩摩国薩摩郡のうちであった。天文5年の島津勝久から入来院重聡への宛行状に「薩摩国千台郡之内百次城所領之事」とあるのが初見であると考えられている。 大永6年には島津実久が百次の地を占領し、山崎成智を城主とするが、入来院氏により何度も攻撃を受け天文8年に陥落し、再び入来院氏が占領。その後岩田ケ城は百次城と呼称されるようになった。元亀元年に入来院氏は百次と共に平佐(現在の平佐町)、高江(現在の高江町)、宮里(現在の宮里町)、天辰(現在の天辰町)、碇山を島津氏に献納した。
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