照栄院 (大田区)
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照栄院(しょうえいいん)は、東京都大田区池上にある日蓮宗の寺院。
- ^ a b c 新編武蔵風土記稿 池上村.
- ^ 長興山妙本寺並びに長栄山本門寺は、昭和16年(1941年)まで1人の住職が2ヶ寺を兼務する「両山一首制」によって護持されていた。(この事から住持職の歴数は「長興長榮両山」もしくは「両山」と書き慣わされる)本門寺創建から安土桃山時代までの約300年間は妙本寺を本拠地として貫首が在山したが、天正19年(1591年)両山12世・佛乗院日惺が徳川家康の江戸入府に伴い本門寺に本拠を遷した。この為、貫首不在となった妙本寺には別当職に相当する「司務職」を置き妙本寺全山を総理統監させた。なお歴代司務職には妙本寺本院・本行院の住職が就任する慣わしとなった。
- ^ 新編武蔵風土記稿
- ^ 行基開山と伝わる下総国随一の古刹。六老僧の1人・日頂と日頂の義父である富木常忍が、時の住持・了性法印尊信を法論の末に帰伏させ、以後は日頂門流(真間門流)の根本寺院として栄えた。
- ^ 両山14世・自證院日詔が鎌倉比企谷の慧雲山常栄寺内に開檀した宝篋堂檀林(鎌倉檀林・常栄寺檀林とも)を遷す形で開檀したとも言われている。なお「講寺」とは檀林である事を強調する為の名称であり、本義的には「立善寺」となる。
- ^ 正善庵・東林庵・白寮・中頭寮・松樹軒・長寿庵・薗林閣・幽微亭・養老庵・雲龍窟・林老庵・梅林庵の十二庵を有した。これは池上法類が発生した飯高檀林城下谷十二庵に倣ったものと推察される。また、照栄院住職の退蔵所(隠居所)である「向林庵」(檀林に向かう庵)は、城下谷十二庵の頭寮であった「向城庵」(飯高城址に向かう庵)になぞらえて名付けられたものと推察される。
- ^ この他、飯高檀林・小西檀林・中村檀林(以上、関東三大檀林)・西谷檀林・三昧堂檀林・松崎檀林・玉造檀林がある。
- ^ 第二次世界大戦終戦をシンガポールで迎え部下の復員に奔走する中、司令部の要請によりチャンギ刑務所のBC級戦犯の教誨師となり日本軍将兵軍属の最期を看取った。その際、イギリス軍によって焼却処分に付されそうになった将兵軍属の遺書を命懸けで持ち出し、遺族に手渡す事に成功している。その後もBC級戦犯遺族や関係者の物心両面にわたる救済に東奔西走し、昭和58年(1983年)には妙見堂境内にチャンギー殉難者慰霊塔を建立し慰霊を続けた。
- ^ 筑後房・正法院とも号した。
- ^ 長秀山本法寺(神奈川県横浜市港北区)5世・照栄院日濃と同一人物であれば、天正15年(1587年)11月18日遷化。
- ^ 鎮護山善國寺(東京都新宿区神楽坂)2世・照栄院日真と同一人物であれば、元和8年(1622年)遷化。
- ^ 本山 長崇山本行寺17世・本寿院日琮と同一人物であれば、万治3年(1660年)2月16日遷化。
- ^ 海岸山妙行寺では享保13年(1728年)11月17日遷化となっている。
- ^ 大光山善立寺在山時代には「寂而院」と号した。
- ^ 行方山妙安寺在山時代には「日深」と号した。
- ^ 比企谷司務職時代には「是妙院」、高栄山真福寺在山時代には「是名院」と号した。
- ^ 高栄山真福寺在山時代には「本妙院」と号した。
- ^ 長興山本行院在山時代には「完也」と号していた。
- ^ 学清山法眼寺在山時代には「常勤院」と号していた。
- ^ 明治19年(1886年)に栄久山光福寺の末寺である妙蓮寺・長久寺と正栄山妙海寺(千葉県勝浦市新官)の末寺である日昌寺の3ヶ寺が合併して布施山三妙寺となったが、日要が実際に在山したのは長久寺である。
- ^ 観行山慈雲寺・廣栄山不変院在山時代には「日宏」と号した。
- ^ 「𨒫」は「之繞+羊」
- ^ 龍燈山善立寺在山時代には「智耐院」と号した。
- ^ 妙光寺日真と同一人物であれば15世。
- ^ 亀福山本覚寺在山時代には「英仲院」と号した。
- ^ 「義圓」とも号した。
- ^ 東山檀林時代・廣栄山一乗寺在山時代・能王山盛圓寺在山初期には「慈乘院日献」と号し、盛圓寺在山後期には「慈乘院日久」と改めた。
- ^ 「現樹院」とも号した。
- ^ 後に「吉田」姓となった。
- ^ 本門寺晋山時に「日顕」を「日淳」に改めた。
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- 2 照栄院 (大田区)の概要
- 3 概要
- 4 文化財
- 5 交通
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