森長可
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/11 15:21 UTC 版)
森 長可(もり ながよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁・源義家の六男・義隆を祖とする森氏(仮冒の説あり)。父は森可成。兄に森可隆、弟に森成利ら。受領名は武蔵守。
注釈
- ^ 兼山歴史民俗資料館には長可の発給したものと伝わる地元商人に専売権を認める旨の書かれた書状が展示されている。
- ^ 一揆勢の犠牲者は森軍に首を取られたと確認されただけでも2450人に及んだ。
- ^ 『越後治乱記』に拠れば守将は「安田惣八」となっているがこの名で知られる安田顕元は2年前に死んでおり、誤記の可能性が高いため、名は伏せる。
- ^ 『越後治乱記』によれば長可の軍勢は侵攻時に14の村に放火していったという。
- ^ 出浦盛清が長可を裏切らなかった理由については森家が甲賀五十三家の一つ、伴家と密接な関係を持っていたことなどが挙げられる。
- ^ 史料、軍記物いずれにも記載がないために詳しい方法は不明。岩村付近で戦闘が行われたという記録もない。
- ^ 受領名の「武蔵守」は信長から授かったとするものもあるが少なくとも信長存命時に「森武蔵守」名義の発給文書や手紙などは一切存在せず、全て「森勝蔵」と書かれている。
- ^ 厳密には古戦場公園の少し西、グリーンロード(愛知県道6号力石名古屋線)の砂子交差点のすぐ北側にある。
- ^ 援助を募った背景には新領の保守のために信頼できる重臣やある程度の兵を美濃に残さなければならなかったという事情も多少影響したと思われる。
出典
- ^ a b 『森家系譜』
- ^ 『兼山町史』など。
- ^ a b c 『信長公記』巻15
- ^ 『史料綜覧』巻10
- ^ 『北越軍記』
- ^ a b c d e f 『金山記全集大成』(森勝蔵長一の武功)
- ^ 『遠山佐渡守、遠山半左衛門尉宛の12月21日付け羽柴秀吉他連署状写』 (天正10(1582)年)
- ^ 長久手市「古戦場ウォークマップ」『長久手市』。2018年5月10日閲覧。
- ^ “子育て・市民活動施設、文化財”. 長久手市. 2021年1月19日閲覧。
- ^ 丹羽氏次著『長久手合戦記』
- ^ 名古屋市博物館蔵
- ^ 天正10年2月23日付『織田信長黒印状』など
- ^ a b 『林家覚書』
- ^ 宗及自會記
- ^ 米原, p. 222-223.
- ^ a b c d 宮本.
- ^ 米原.
- ^ 二木 1991, p. 164.
- ^ 「森武蔵守の由来」『兼山町史』岐阜県可児郡兼山町、1972年、1003頁。
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