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栃錦清隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/24 00:15 UTC 版)

栃錦 清隆(とちにしき きよたか、1925年(大正14年)2月20日 - 1990年(平成2年)1月10日)は、東京府南葛飾郡(現在の東京都江戸川区)出身の大相撲の第44代横綱。本名、大塚清(おおつか きよし)(のちに栃木山の養子になり、中田姓)。身長178cm、体重132kg。春日野部屋所属。初代若乃花幹士との対決で相撲界に戦後屈指の黄金時代「栃・若時代」を築いた。軽量の業師のイメージで語られることが多いが、横綱昇進後は体重も増え寄り・押し中心の相撲。引退後は年寄春日野として日本相撲協会理事長もつとめ、両国国技館建設などに尽力した。JR小岩駅構内に彼の銅像が立っている。愛称・土俵の名人マムシ。(小兵であるにもかかわらず廻しを取るとしぶとく寄る、食らいついたら離れない取り口から)

国技館辺に展示されている栃錦の手形



  1. ^ 立行司22代式守伊之助ともども大鵬の勝ちと主張。しかし春日野以外の勝負審判は戸田の勝ちを支持し、1-4で行司差し違えとなり戸田の勝ち・大鵬46連勝ならずとなるが、誤審であることが判明。相撲の判定にビデオ判定が導入される直接のきっかけとなった。
  2. ^ 北の富士の「つき手」か「かばい手」かを巡って大物言いとなる。立行司25代木村庄之助は「つき手」として貴ノ花に軍配を上げたが、しかし春日野は「かばい手」=貴ノ花は「死に体」だったと主張し、行司差し違えで北の富士の勝ちとなり、木村庄之助引退の原因となった。
  3. ^ 佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)


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