朱元璋との抗争と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 02:00 UTC 版)
呉王を称したものの、張士誠の勢力拡張の動きは鈍かった。陳友諒は、張士誠に使者を送って、朱元璋を東西から挟撃しようと誘ったが、漁夫の利を狙う張士誠はこの話には乗らなかった。 一方、着々と力を増していた朱元璋は至正23年(1363年)に鄱陽湖の戦いで西の宿敵陳友諒を敗死に追い込む。翌至正24年(1364年)には陳友諒の跡を継いだ子の陳理を降らせ、湖北、江西の一帯を版図に治めた朱元璋は矛先を東に転じ、張士誠に対する本格的な進攻を開始した。 至正26年(1366年)、朱元璋の軍勢は張士誠の本拠地である隆平府を包囲した。長期の包囲戦の末、隆平府は翌至正27年(1367年)9月に陥落したが、日頃から慕われていたため離反した将士は一人もいなかった。捕らえられた張士誠は、応天府に送られる途上、自縊して果てた。享年47。
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