曽我物語における富士野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 13:49 UTC 版)
真名本『曽我物語』では源頼朝が富士野自体を「東国には狩場多しといへども、富士野に過ぎたる名所はなし」と評する場面がある(「妙本寺本」巻六)。仮名本曽我物語には「富士野は広ければ、勢子少なくては叶ふまじ」(太山寺本巻八)とあり、同じく仮名本に「ひろきふじ野」(彰考館本)とあるように、富士野の広大さや巻狩の規模の大きさが曽我物語では謳われている。 また「駿河の国富士野の裾、伊出の屋形」(「妙本寺本」巻八・九・十等)・「富士野の麓伊出の屋形」(「妙本寺本」巻十)とあり、真名本曽我物語では富士野の伊出の屋形を曽我兄弟最期の地として記している。 『運歩色葉集』(京都大学蔵元亀二年写本)に「藺手(イデ)屋形 曽我」とあり、また『保暦間記』には「彼狩野ノ井出ノ屋形ニテ、資経討レヌ」とある。このように伊出(井出)の屋形と仇討ちが関係をもって語られる史料が認められる一方で、『吾妻鏡』においては仇討ちを示す部分に井出の屋形は登場していない。
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