日支闘争計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 13:46 UTC 版)
日支闘争計画(にっしとうそうけいかく)とは、日本と支那(中華民国)を争わせ、世界戦争を誘発して日本を包囲殲滅する計画と言われるもの。コミンテルン(国際共産党、第三インターナショナル)によって考案され、コミンテルンに指導された勢力ー中国共産党[1]、日本軍部の統制派[2][3]、太平洋問題調査会(IPR)[4]などによって実行されたとする見解もある。
- ^ 黒田紘一、『日中戦争の真実』、幻冬舎ルネッサンス新書、2015年
- ^ a b c d e f g h 三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義』自由社、1987年
- ^ 統制派の前身となった桜会のスポンサーはスターリンであったとする見解もある。“桜会の資金元は、1923年にレーニンの指示で、吉田一がヨッフェから60万円(現在の貨幣価値で約40億円)を受け取った。この資金が後に、桜会に渡ることとなる。〈更に、この時に受け取った資金の残金が、戦後、日本社会党の結党資金となっている。”ブログ「誠」より
- ^ a b c d e 渡部梯治『ユダヤは日本に何をしたか』 成甲書房2003年
- ^ 「この頃(1939年)、日本の警察は、合衆国を通じて日本がコミンテルンと連携を保っていることを知っていた。この太平洋路線は、1935年以来、機関員、伝書使、資金の主要経路になっていた。宮城はこの道を通り、コミンテルンの援助のもとに、ゾルゲ・グループに参加する旅をしたのであった」F.D.ディーキン、『ゾルゲ追跡(下)』、岩波現代文庫、2003年、120ページ
- ^ 三田村武夫『戦争と共産主義 : 昭和政治秘録』民主制度普及会 1950年, p.37
- ^ 日支闘争同盟ビラ - 展示室ギャラリー 愛知大学記念館
- ^ a b c 尾崎秀実手記抜粋、昭和17年、三田村武夫「大東亜戦争とスターリンの謀略」収載
- ^ 伊藤隆、野村実編「海軍大将小林躋造覚書」山川出版社、173 page、近代日本史料選書3、1981年
- ^ 「したがって、ソルゲ事件は半分しか解明されていないことになります。共産党との関わりでしか調べていないからです。当時の日本陸軍そのものが、どれだけソ連に浸透されていたかという問題については、アンタッチャブルなのです。何も調べていない。だから、我々が見ているソルゲ事件は、実態の半分です。本当は陸軍参謀本部の人間がソルゲにどれだけ協力したか。日本の軍のなかに、どれだけソ連のスパイがいたかということが分かってはじめて真相に到達するのです。」菅原光弘、『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』、KKベストセラーズ、2013
- ^ 1939年9月1日にゾルゲはモスクワから次のような通信を受け取った。「私は貴下の最も緊急かつ重要な問題は数名の日本の陸軍将校の援助を得ることであると指摘した」、F.D.ディーキン、『ゾルゲ追跡(下)』、岩波現代文庫、2003年、73ページ
- ^ a b c 山口富永、近衛上奏文と皇道派、国民新聞社、2010年
- 日支闘争計画のページへのリンク