施耐の戦い (1283年)とは? わかりやすく解説

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施耐の戦い (1283年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/29 01:32 UTC 版)

施耐の戦い(ティナイのたたかい、ベトナム語Trận Thị Nại 1283 / 陣施耐1283)は、1283年旧暦正月15日に行われたチャンパ王国軍とモンゴル帝国大元ウルス)軍との戦いである。海路より直接「占城港(現在のクイニョン港:Quy Nhơn/帰仁を指す[1])」に攻め入ったモンゴル軍は約2ヶ月にわたる交渉が失敗に終わった後、クイニョンにおけるチャンパー軍の軍事拠点である「木城」を巡る戦闘で勝利することで「占城港(クイニョン港)」・「大州(チャンパーの首都ヴィジャヤ英語版を指す[2])」を占領することに成功した。


  1. ^ 山本1950,116頁
  2. ^ 山本1950,115-117頁
  3. ^ 山本1950,117/145頁
  4. ^ 『大南一統志』巻9平定省,「施耐海汛、在綏福県東、広一百九十七丈、潮深五丈七尺、汐深五丈四尺。……」
  5. ^ 向2021,254頁
  6. ^ 山本1950,99頁
  7. ^ 向2013,77頁
  8. ^ 占城伝の原文では「至元十九年」となっているが、本紀に従って18年と訂正するのが正しい(山本1950,104頁)。
  9. ^ 向2013,85頁
  10. ^ 山本1930,100頁
  11. ^ 向2013,86頁
  12. ^ 山本1950,112頁
  13. ^ 向2013,86頁
  14. ^ 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「十九年十月、朝廷以占城国主孛由補剌者吾曩歲遣使来朝、称臣内属、遂命右丞唆都等即其地立省以撫安之。既而其子補的專国、負固弗服、万戸何子志・千戸皇甫傑使暹国、宣慰使尤永賢・亞闌等使馬八児国、舟経占城、皆被執、故遣兵征之。帝曰『老王無罪、逆命者乃其子与一蛮人耳。苟獲此両人、当依曹彬故事、百姓不戮一人』」
  15. ^ ただし、『元史』世祖本紀によるとソゲドゥに占城討伐が命じられた翌日の至元19年6月11日に何子志が暹国に派遣されており(『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年六月]己亥、命何子志為管軍万戸、使暹国」)、「何子志らが占城国に捕らえられた為にクビライは出兵を決意した」とする『元史』占城伝の記述と食い違う。この点について安南史研究者の山本達郎は、クビライが占城出兵を表明した至元19年6月以後も両国の使者のやりとりが記録されていることに注目し(『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年八月]丙辰、謫捏兀叠納戍占城以贖罪。……[冬十月]甲辰、占城国納款使回、賜以衣服」)、6-7月時点では占城国側は本気でモンゴルと対立する気はなく交渉によってこの南極を乗り切ろうとしたのではないか、と推測する。しかし結果的に交渉は失敗したため、ここで初めて占城側はクビライの使者を拘束し、クビライも改めて占城への出兵を表明したのではないか、と論じている(山本1950,111頁)。)
  16. ^ 山本1950,113頁
  17. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年十一月]甲戌、中書省臣言『天下重囚、除謀反大逆、殺祖父母・父母、妻殺夫、奴殺主、因姦殺夫、並正典刑外、余犯死罪者、令充日本・占城・緬国軍』。従之。改鑄省印」
  18. ^ 山本1950,113頁
  19. ^ 山本1950,114頁
  20. ^ a b c d e 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「[至元十九年]十一月、占城行省官率兵自広州航海至占城港。港口北連海、海旁有小港五、通其国大州、東南止山、西旁木城。官軍依海岸屯駐。占城兵治木城、四面約二十餘里、起樓棚、立回回三梢砲百餘座。又木城西十里建行宮、孛由補剌者吾親率重兵屯守応援。行省遣都鎮撫李天祐・総把賈甫招之、七往、終不服。十二月、招真臘国使速魯蛮請往招諭、復与天祐・甫偕行、得其回書云『已修木城、備甲兵、刻期請戦』」
  21. ^ 山本1950,117頁
  22. ^ 山本1950,106-107頁
  23. ^ 山本1950,114-115頁
  24. ^ a b c d e f 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「二十年正月、行省伝令軍中、以十五日夜半発船攻城。至期、分遣瓊州安撫使陳仲達・総管劉金・総把栗全以兵千六百人由水路攻木城北面。総把張斌・百戸趙達以三百人攻東面沙觜。省官三千人分三道攻南面。舟行至天明泊岸、為風濤所碎者十七八。賊開木城南門、建旗鼓、出万餘人、乘象者数十、亦分三隊迎敵、矢石交下。自卯至午、賊敗北、官軍入木城、復与東北二軍合擊之、殺溺死者数千人。守城供餉餽者数万人悉潰散。国主棄行宮、燒倉廩、殺永賢・亞闌等、与其臣逃入山」
  25. ^ なお、この時動員された兵数を合計すると全軍で49,00名となり、『元史』世祖本紀 至元十九年六月戊戌条の「淮・浙・福建・湖広各行省から徴発された軍5,000(淮・浙・福建・湖広軍五千)」という数とよく合致する(山本1950,119頁)。
  26. ^ 山本達郎は、尤永賢・亞闌らを人質にする形でチャンパー国は12月の交渉を行っていたが、交渉は頓挫してモンゴルの攻撃を受けたため、人質としての価値を失ったと判断したチャンパー国主によって尤永賢・亞闌らは処刑されたのであろう、と指摘する(山本1950,120頁)。)
  27. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「十八年、改右丞、行省占城。十九年、率戦船千艘、出広州、浮海伐占城。占城迎戦、兵号二十万。唆都率敢死士撃之、斬首並溺死者五万余人」
  28. ^ 山本1950,139頁


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