モンゴルのチャンパー侵攻とは? わかりやすく解説

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モンゴルのチャンパー侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/07 00:34 UTC 版)

モンゴルのチャンパー侵攻(モンゴルのチャンパーしんこう)では、1282年から1283年にかけてチャンパ王国(占城国)に侵攻したモンゴル軍が引き起こした諸戦闘について解説する。


  1. ^ 宋末に編纂された『島夷雑誌』には「広州から船で諸蕃に至るには占城が最も近い」と記されており、この頃に航海技術の発達によって広州から直接チャンパーに至るルートが確立していたことが窺える。これに関連するように、同時期に西方のアンコール朝も大越国との交易を減らし、代わってロップリーを経てタイ湾に出る交易ルートを開拓している(桃木2011,143頁)。
  2. ^ 桃木2001,184頁
  3. ^ 向2021,254頁
  4. ^ a b c 山本1950,99頁
  5. ^ 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「占城近瓊州、順風舟行一日可抵其国。世祖至元間、広南西道宣慰使馬成旺嘗請兵三千人・馬三百匹征之」
  6. ^ 山本1950,99-100頁
  7. ^ a b c d e f 渡辺2023,265頁
  8. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「十五年……進参知政事、行省福州。徴入見、帝以江南既定、将有事於海外、陞左丞、行省泉州、招諭南夷諸国」
  9. ^ 訳文は向2013,73頁より引用
  10. ^ 『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十六年六月]甲辰……占城・馬八児諸国遣使以珍物及象犀各一来献」
  11. ^ 向2013,77頁
  12. ^ 向2013,78-79頁
  13. ^ 向2013,79頁
  14. ^ 山本1950,101頁
  15. ^ 向2013,79頁
  16. ^ モンゴル侵攻時のチャンパー王の名前はチャム語碑文によってIndravarmanであると明らかになっている。一方、漢文史料の『元史』では様々な表記があり、世祖本紀至元18年10月条の「失里咱牙信合八剌麻合叠(シュリージャヤ・シンハヴァルマン・マハーデーヴァ/Çriījaya Sinhavarman Mahādeva)」、『元史』占城伝17年条の「保宝旦拏囉耶卭南詙占把地囉耶(PuPoṅ tana rāja Camphādirāja)」、『元史』占城伝19/20年条の「孛由補剌者吾(Pulyaṅ Çri Yuvarāja Vlom)」といった表記がある(山本 1950,106-107頁)。
  17. ^ 『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十六年十二月]丙申、敕枢密・翰林院官、就中書省与唆都議招收海外諸番事。……丁酉……詔諭海内海外諸番国主。賜右丞張惠銀五千四百両。……詔諭占城国主、使親自来朝。唆都所遣阇婆国使臣治中趙玉還」
  18. ^ 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「十五年、左丞唆都以宋平遣人至占城、還言其王失里咱牙信合八剌麻哈迭瓦有内附意、詔降虎符、授栄禄大夫、封占城郡王。十六年十二月、遣兵部侍郎教化的・総管孟慶元・万戸孫勝夫与唆都等使占城、諭其王入朝」
  19. ^ 山本1950,101頁
  20. ^ 向2013,79-80頁
  21. ^ 山本1950,102頁
  22. ^ 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「十七年二月、占城国王保寶旦拏囉耶卭南詙占把地囉耶遣使貢方物、奉表降」
  23. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十七年六月]壬申、復招諭占城国……[八月]戊寅、占城・馬八児国皆遣使奉表称臣、貢宝物犀象」
  24. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十七年十一月]丁卯……遣宣慰使教化・孟慶元等持詔諭占城国主、令其子弟或大臣入朝」
  25. ^ 向2013,84頁
  26. ^ 山本1950,103頁
  27. ^ なお、これに先行して安南(大越国陳朝)に対しては至元17年から皇子・国王の入朝が命じられるなど強硬なものとなっている(山本1950,107頁)。
  28. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十八年秋七月]辛酉、唆都征占城、賜駝蓬以辟瘴毒。占城国来貢象犀」
  29. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十八年九月]壬辰、占城国来貢方物」
  30. ^ 山本1950,105頁
  31. ^ 占城伝の原文では「至元十九年」となっているが、本紀に従って18年と訂正するのが正しい(山本1950,104頁)。
  32. ^ 向2013,85頁
  33. ^ ただし、『元史』巻131列伝18亦黒迷失伝には「十八年、拝荊湖占城等処行中書参知政事、招諭占城」とあるが、「荊湖占城等処行中書省」という名称は至元20年9月以後に設定されたものであり、これは「占城等処行中書省」と訂正すべきである(山本1950,106頁)。
  34. ^ 本紀の記事はこの時既に諸将が占城に至っていたかのようにも読めるが、あくまで朝廷で任命がなされた記事であると解すべきである(山本1950,105-106頁)。
  35. ^ 山本1950,103頁
  36. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十八年冬十月]己酉……命失里咱牙信合八剌麻合叠瓦為占城郡王、加栄禄大夫、賜虎符。立行中書省占城。以唆都為右丞、劉深為左丞、兵部侍郎也里迷失参知政事。庚戌、敕以海船百艘、新舊軍及水手合万人、期以明年正月征海外諸番、仍諭占城郡王給軍食。以安南国王陳遺愛入安南、発新附軍千人衛送。詔諭幹不昔国来帰附」
  37. ^ 山本1950,104頁
  38. ^ 山本1950,105頁
  39. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十八年十一月]己巳……奉使占城孟慶元・孫勝夫並為広州宣慰使、兼領出征調度。……詔安南国王給占城行省軍食」
  40. ^ 山本1930,100頁
  41. ^ 向2013,86頁
  42. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年六月]戊戌、以占城既服復叛、発淮・浙・福建・湖広軍五千・海船百艘・戦船二百五十、命唆都為将討之。亡宋軍有手号及無手号者、並聴為民」
  43. ^ 山本1950,108頁
  44. ^ なお、『元史』カルナダス伝には至元24年以前に 「南海諸国への出征をとりやめて使者を派遣することとした」との記述があり(『元史』巻134列伝21迦魯納荅思伝,「朝議興兵討暹国・羅斛・馬八児・倶藍・蘇木都剌諸国、迦魯納荅思奏「此皆蕞爾之国、縦得之、何益。興兵徒残民命、莫若遣使諭以禍福、不服而攻、未晩也」。帝納其言。命岳剌也奴・帖滅等往使、降者二十餘国」)、至元19年正月の出兵延期と関連しているのではないかとする説がある。ただし、この記述は至元23年のことを指すとも解釈でき、至元19年正月の出兵延期の原因であると断言はできない(山本1950,109頁)。
  45. ^ 山本1950,112頁
  46. ^ 向2013,86頁
  47. ^ 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「十九年十月、朝廷以占城国主孛由補剌者吾曩歲遣使来朝、称臣内属、遂命右丞唆都等即其地立省以撫安之。既而其子補的專国、負固弗服、万戸何子志・千戸皇甫傑使暹国、宣慰使尤永賢・亞闌等使馬八児国、舟経占城、皆被執、故遣兵征之。帝曰『老王無罪、逆命者乃其子与一蛮人耳。苟獲此両人、当依曹彬故事、百姓不戮一人』」
  48. ^ ただし、『元史』世祖本紀によるとソゲドゥに占城討伐が命じられた翌日の至元19年6月11日に何子志が暹国に派遣されており(『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年六月]己亥、命何子志為管軍万戸、使暹国」)、「何子志らが占城国に捕らえられた為にクビライは出兵を決意した」とする『元史』占城伝の記述と食い違う。この点について安南史研究者の山本達郎は、クビライが占城出兵を表明した至元19年6月以後も両国の使者のやりとりが記録されていることに注目し(『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年八月]丙辰、謫捏兀叠納戍占城以贖罪。……[冬十月]甲辰、占城国納款使回、賜以衣服」)、6-7月時点では占城国側は本気でモンゴルと対立する気はなく交渉によってこの南極を乗り切ろうとしたのではないか、と推測する。しかし結果的に交渉は失敗したため、ここで初めて占城側はクビライの使者を拘束し、クビライも改めて占城への出兵を表明したのではないか、と論じている(山本1950,111頁)。)
  49. ^ 山本1950,113頁
  50. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年十一月]甲戌、中書省臣言『天下重囚、除謀反大逆、殺祖父母・父母、妻殺夫、奴殺主、因姦殺夫、並正典刑外、余犯死罪者、令充日本・占城・緬国軍』。従之。改鑄省印」
  51. ^ 山本1950,113頁
  52. ^ 山本1950,114頁
  53. ^ 山本1950,116頁
  54. ^ a b c d e 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「[至元十九年]十一月、占城行省官率兵自広州航海至占城港。港口北連海、海旁有小港五、通其国大州、東南止山、西旁木城。官軍依海岸屯駐。占城兵治木城、四面約二十餘里、起樓棚、立回回三梢砲百餘座。又木城西十里建行宮、孛由補剌者吾親率重兵屯守応援。行省遣都鎮撫李天祐・総把賈甫招之、七往、終不服。十二月、招真臘国使速魯蛮請往招諭、復与天祐・甫偕行、得其回書云『已修木城、備甲兵、刻期請戦』」
  55. ^ 山本1950,117頁
  56. ^ 山本1950,114-115頁
  57. ^ a b c d e f 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「二十年正月、行省伝令軍中、以十五日夜半発船攻城。至期、分遣瓊州安撫使陳仲達・総管劉金・総把栗全以兵千六百人由水路攻木城北面。総把張斌・百戸趙達以三百人攻東面沙觜。省官三千人分三道攻南面。舟行至天明泊岸、為風濤所碎者十七八。賊開木城南門、建旗鼓、出万餘人、乘象者数十、亦分三隊迎敵、矢石交下。自卯至午、賊敗北、官軍入木城、復与東北二軍合擊之、殺溺死者数千人。守城供餉餽者数万人悉潰散。国主棄行宮、燒倉廩、殺永賢・亞闌等、与其臣逃入山」
  58. ^ なお、この時動員された兵数を合計すると全軍で49,00名となり、『元史』世祖本紀 至元十九年六月戊戌条の「淮・浙・福建・湖広各行省から徴発された軍5,000(淮・浙・福建・湖広軍五千)」という数とよく合致する(山本1950,119頁)。
  59. ^ 山本達郎は、尤永賢・亞闌らを人質にする形でチャンパー国は12月の交渉を行っていたが、交渉は頓挫してモンゴルの攻撃を受けたため、人質としての価値を失ったと判断したチャンパー国主によって尤永賢・亞闌らは処刑されたのであろう、と指摘する(山本1950,120頁)。)
  60. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「十八年、改右丞、行省占城。十九年、率戦船千艘、出広州、浮海伐占城。占城迎戦、兵号二十万。唆都率敢死士撃之、斬首並溺死者五万余人」
  61. ^ 山本1950,139頁
  62. ^ 山本1950,115-117頁
  63. ^ a b c d 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「十七日、整兵攻大州。十九日、国主使報答者来求降。二十日、兵至大州東南、遣報答者回、許其降免罪。二十一日、入大州。又遣博思兀魯班者来言『奉王命、国主・太子後当自来』。行省伝檄召之、官軍復駐城外。二十三日、遣其舅宝脱禿花等三十餘人、奉国王信物雜布二百匹・大銀三錠・小銀五十七錠・碎銀一甕為質、来帰款。又献金葉九節標槍曰『国主欲来、病未能進、先使持其槍来、以見誠意。長子補的期三日請見』。省官却其物。宝脱禿花曰『不受、是薄之也』。行省度不可却、姑令收置、乃以上聞」
  64. ^ 山本1950,119頁
  65. ^ 山本1950,120頁
  66. ^ a b c d e 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「宝脱禿花復令其主第四子利世麻八都八徳剌・第五子世利印徳剌来見、且言『先有兵十万、故求戦。今皆敗散。聞敗兵言、補的被傷已死。国主頰中箭、今小愈、愧懼未能見也、故先遣二子来議赴闕進見事』。省官疑其非真子、聴其還。諭国主早降、且以問疾為辞、遣千戸林子全・総把栗全・李徳堅偕往覘之。二子在途先帰。子全等入山両程、国主遣人来拒、不果見。宝脱禿花謂子全曰『国主遷延不肯出降、今反揚言欲殺我、可帰告省官、来則来、不来、我当執以往』。子全等回営。是日、又殺何子志・皇甫傑等百餘人」
  67. ^ 山本1950,120頁
  68. ^ 山本1950,120頁
  69. ^ ここで宝脱禿花が述べる王家内の内紛はそのまま事実と受け取れないが、インドラヴァルマン5世自身が叔父のジャヤ・インドラヴァルマン1世から墓奪した人物と伝えられており、まったくの創作とも言い難いと考えられる(山本1950,122頁)
  70. ^ 山本1950.122頁
  71. ^ a b c d 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「二月八日、宝脱禿花又至、自言『吾祖父・伯・叔、前皆為国主、至吾兄、今孛由補剌者吾殺而奪其位、斬我左右二大指、我実怨之。願禽孛由補剌者吾・補的父子、及大拔撒機児以献。請給大元服色』。行省賜衣冠、撫諭以行。十三日、居占城唐人曾延等来言『国主逃於大州西北鴉候山、聚兵三千餘、并招集他郡兵未至、不日将与官軍交戦。懼唐人泄其事、将盡殺之。延等覚而逃来』。十五日、宝脱禿花偕宰相報孫達児及撮及大師等五人来降。行省官引曾延等見、宝脱禿花詰之、曰『延等姦細人也、請繫縲之。国主軍皆潰散、安敢復戦』。又言『今未附州郡凡十二処、每州遣一人招之。旧州水路、乞行省与陳安撫及宝脱禿花各遣一人乘舟招諭攻取。陸路則乞行省官陳安撫与己往禽国主・補的及攻其城』。行省猶信其言、調兵一千屯半山塔、遣子全・徳堅等領軍百人、与宝脱禿花同赴大州進討、約有急則報半山軍」
  72. ^ 山本1950,122頁
  73. ^ 山本1950,123-124頁
  74. ^ 山本1950,122頁
  75. ^ a b c d e f 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「子全等比至城西、宝脱禿花背約間行、自北門乗象遁入山。官軍獲諜者曰『国主実在鴉候山立寨、聚兵約二万餘、遣使交趾・真臘・闍婆等国借兵、及徵賓多龍・旧州等軍未至』。十六日、遣万戸張顒等領兵赴国主所棲之境。十九日、顒兵近水城二十里。賊浚濠塹、拒以大木、官軍斬刈超距奮擊、破其二千餘衆。転戦至木城下、山林阻隘不能進、賊旁出截帰路、軍皆殊死戦、遂得解還営。行省遂整軍聚糧、創木城、遣総管劉金、千戸劉涓・岳栄守禦」
  76. ^ この頃の漢文史料に記載される「占城国の旧州・新州」とは、「チャンパー国の旧都インドラプラ・新都ヴィジャヤ」を指す単語と見られる。また、『元史』には「占城旧州主が入附した」との記録もあり、旧州=インドラプラ一帯はチャンパー領でありながらチャンパー王とは別の有力者によって治められていたようである(山本1950,124頁)。
  77. ^ 『元史』占城伝のこの時期の記述には「水城」と「木城」という城名が現れるが、文脈から見て同一の城でありどちらかが誤りと考えられる。また、占城港にあった「木城」とは全く別の存在と見なすべきである(山本1950,122頁)。
  78. ^ 山本1950,122頁
  79. ^ 山本1950,122頁
  80. ^ 山本1950,124頁
  81. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年二月]乙巳、令隆興行省遣軍護送占城糧船」
  82. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年五月]丙寅……敕阿里海牙調漢軍七千・新附軍八千、以付唆都従征」
  83. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年五月]辛未、占城行省已破占城、其国主補底遁去、降璽書招来之。甲戌、発征日本重囚往占城・緬国等処従征。……己卯……海南四州宣慰使朱国宝請益兵討占城国主、詔以阿里海牙軍万五千人応之。……辛巳、給占城行省唆都弓矢甲仗」
  84. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年九月]丙寅……併占城・荊湖行省為一」
  85. ^ 山本1950,125-126頁
  86. ^ なお、この時占城行省と合併したのが海岸方面の福建などではなく内陸の「荊湖」であったのは、荊湖からは陸軍を進発させ、水陸双方から安南・占城に進軍する意図があったためと考えられる。実際に、後に安南遠征軍は荊湖方面から進発している(山本1950,129頁)。
  87. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年冬十月]丁酉、誅占城逃回軍。……以忽都忽総揚州行省唆都新益軍」
  88. ^ 山本1950,126頁
  89. ^ a b c d e f 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「二十一年三月六日、唆都領軍回。十五日、江淮省所遣助唆都軍万戸忽都虎等至占城唆都旧制行省舒眉蓮港、見営舍燒尽、始知官軍已回。二十日、忽都虎令百戸陳奎招其国主来降。二十七日、占城主遣王通事者来称納降。忽都虎等諭令其父子奉表進献。国主遣文労卭大巴南等来、称唆都除蕩其国、貧無以献、来年当備礼物、令嫡子入朝。四月十二日、国主令其孫済目理勒蟄・文労卭大巴南等奉表帰款。是年、命平章政事阿里海牙奉鎮南王脱歓発兵、假道交趾伐占城、不果行」
  90. ^ 『元史』巻166列伝53張玉伝,「[至元]二十年、広東盜起、遏絶占城糧運」
  91. ^ 山本1950,132-133頁
  92. ^ 山本1950,132頁
  93. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年二月]丁未……命阿塔海発兵万五千人・船二百艘助征占城、船不足、命江西省益之」
  94. ^ 山本1950,132頁
  95. ^ 山本1950,133頁
  96. ^ a b c 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年五月]己未、荊湖占城行省言『忽都虎・忽馬児等将兵征占城、前鋒舟師至舒眉蓮港不知所向、令万戸劉君慶進軍次新州、獲占蛮、始知我軍已還矣。就遣占蛮向導至占城境、其国主遣阿不蘭以書降、且言其国経唆都軍馬虜掠、国計已空、俟来歲遣嫡子以方物進。継遣其孫路司理勒蟄等奉表詣闕』。……庚午、荊湖占城行省以兵進據烏馬境、地近安南、請益兵、命鄂州達魯花赤趙翥等奉璽書往諭安南」
  97. ^ 『元史』巻13世祖本紀10に「その国主は阿不蘭を遣わして書を以て降ろうとした(其国主遣阿不蘭以書降)」とあるのは、占城伝に「27日、占城の主は王通事なる者を遣わして納降せんことを称した(二十七日、占城主遣王通事者来称納降)」とあるのと同じ出来事を指すと考えられる。ただし、世祖本紀で続けて「且言其国経唆都軍馬虜掠、国計已空、俟来歲遣嫡子以方物進」とあるのは、占城伝の「国主遣文労卭大巴南等来、称唆都除蕩其国、貧無以献、来年当備礼物、令嫡子入朝」という記述の方に近く、世祖本紀の方は2回にわたる使者の派遣を一つにまとめていると考えられる(山本1950.134頁)。
  98. ^ 山本1950,140頁
  99. ^ ただし、ソゲドゥ伝に大浪湖の勝利の後「占城が降った」とあるのは事実とは考えにくく、実際には占城国そのものが降ったのではなくソゲドゥ軍に敗れた占城軍が投降したというほどの意味ではないかと考えられる(山本1950,141頁)。
  100. ^ 山本1950,139頁
  101. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「又敗之於大浪湖、斬首六万級。占城降、唆都造木為城、辟田以耕。伐烏里・越里諸小夷、皆下之、積穀十五万以給軍」
  102. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年夏四月]庚子、湖広行省平章阿里海牙請身至海濱收集占城散軍、復使南征、且趣其未行者、許之」
  103. ^ 山本1950,136-137頁
  104. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年五月]癸丑、枢密院臣言『唆都潰軍已令李恒收集、江淮・江西両省潰軍、別遣使招諭、凡至者皆給之糧、舟楫損者修之、以俟阿里海牙調用』。従之」
  105. ^ 山本1950,136頁
  106. ^ 世祖本紀の記事ではクトゥク軍は占城への航海中に壊滅したようにも見えるが、占城伝の記すように占城国には到着したが、先に撤退してしまったソゲドゥ軍と合流するために移動した際中の事件と見なすべきである(山本1950,137頁)
  107. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年五月]丁丑、忽都虎・烏馬児・劉万戸等率揚州省軍二万赴唆都軍前、遇風船散、其軍皆潰。敕追烏馬児等誥命・虎符及部将所受宣敕、以河西孛魯合答児等代之、聴阿里海牙節制」
  108. ^ 山本1950,137-138頁
  109. ^ 山本1950,138頁
  110. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年五月]庚午、荊湖占城行省以兵進拠烏馬境、地近安南、請益兵、命鄂州達魯花赤趙翥等奉璽書往諭安南」
  111. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年秋七月]丁亥、江淮行省以占城所遣太半達連紥赴闕、及其地図来上」
  112. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年八月]辛亥……占城国王乞回唆都軍、願以土産歲修職貢、使太盤亞羅日加翳・大巴南等十一人奉表詣闕、献三象」
  113. ^ 山本1950,146頁
  114. ^ 訳文は愛宕1971,142-144頁より引用
  115. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年十一月]庚寅、占城国王遣使大羅盤亞羅日加翳等奉表来賀聖誕節、献礼幣及象二、占城旧州主宝嘉婁亦奉表入附」
  116. ^ 山本1950,142頁
  117. ^ 山本1950,142-143頁
  118. ^ 向2013,87頁
  119. ^ 向2013,87頁
  120. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年]九月乙丑朔、馬八児・須門那・僧急里・南無力・馬蘭丹・那旺・丁呵児・来来・急闌亦帯・蘇木都剌十国、各遣子弟上表来観、仍貢方物」
  121. ^ 向2013,87-90頁
  122. ^ 向2013,90-91頁
  123. ^ 向2013,92頁
  124. ^ 向2013,93-96頁


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