抜刀隊
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抜刀隊(ばっとうたい、旧字体: 拔刀隊󠄁)は、1877年(明治10年)の西南戦争最大の激戦(勝敗の分水嶺)となった田原坂の戦いにおいて、川路利良が率いる警視隊から組織された別働第三旅団から選抜[1]して臨時に編成され投入された白兵戦部隊。
注釈
- ^ 陸軍参謀本部編纂課「征西戦記稿 巻八 田原阪戦記14-15ページ」より転載 *第一次抜刀隊について。「『三月十四日』我カ抜刀隊ハ川畑上田園田三警部各々自ラ刀ヲ揮ヒ其衆ヲ分率シ(※割注*2)賊ノ中央ノ塁ニ逼リ三面一斉ニ衝突シ縦横乱撃立トコロニ数十賊ヲ斬ル余賊塁ヲ棄テ走ル乃チ奪フテ之ニ拠ル此塁ヤ台兵十数日ノ攻撃ヲ費ス所是日一撃之ヲ陥ル抜刀隊ノ功多キニ居ル世ニ所謂抜刀隊ノ斫込実ニ本日ヲ以テ始ト為ス」※割注*2「百人ヲ四分シ上田園田ハ二警部(緒方惟典同惟一)四十巡査ヲ率テ塁ノ正面ニ向ヒ川畑ハ二警部(永谷常修内村良蔵)三十巡査ヲ以テ其背面ニ逼リ隈元警部補ハ巡査十名ヲ以テ側面ヨリシ田村警部以下廿三名ハ遊軍タリ」
- ^ NHKの歴史番組『堂々日本史』、『その時歴史が動いた』においても、抜刀隊には会津藩が戊辰戦争の恨みを晴らすために大勢参加したと解説された[5]。
- ^ 橋本昌樹、1972、『田原坂 西南役連作』、中央公論新社 ASIN B000J9AAPCの中で、犬養の記事を「『戊辰の復讐』の声がはっきりと記録されたのは、これが最初であろう。以後、その声は各所にあがり、各地で記録されている。後に新撰旅団を編成するため巡査を召募した時に至っては、その応募者の大多数が、戊辰の復讐のためというのが動機であったという」と評している。
- ^ 第4代全日本剣道連盟会長の庄子宗光は『剣道百年』(時事通信社)の中で、「当時、全国剣道界の大殿堂のような観を呈し、いやしくも剣道家になろうと志す者は、必ず警視庁に来て修行を積む有様であった。後年、剣道家として名を成した高野佐三郎、内藤高治、川崎善三郎、高橋赳太郎、門奈正らの名剣客は、いずれも青年時代を警視庁で送り、幕末の名剣客の指導を受けてその基礎を築き上げたのであった」と評している。
出典
- ^ “近代日本警察の生みの親・川路利良”. 産経ニュース (2018年7月27日). 2019年12月23日閲覧。
- ^ 後藤正義著「西南戦争警視隊戦記」サンケイ新聞データシステム刊、p221-222
- ^ “3月28日 陸軍少将 高島靹之助他”. JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09081315600、本営通牒 明治10年2月20日~10年9月31日(防衛省防衛研究所). 2020年2月23日閲覧。
- ^ 「内務省警視局職員録 明治10年5月改正」及び「植木口警視隊編成表」
- ^ NHK取材班編『堂々日本史 第15巻』、KTC中央出版 P.178
- ^ 小川原正道、2007、『西南戦争 西郷隆盛と日本最後の内戦』、中央公論新社〈中公新書〉 ISBN 978-4-12-101927-1 ASIN 412101927X pp. P.119
- ^ 勇知之著『新説 西南戦争』、七草社、2007年 P.89-90
- ^ “赳太郎と善三郎”. 無外流兵法譚. 2011年11月11日閲覧。
- ^ a b c 『警視庁史 明治編』、警視庁史編さん委員会 P.304-305
「抜刀隊」の例文・使い方・用例・文例
- 抜刀隊という部隊
抜刀隊と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
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