慶応3年(1867年)の四侯会議
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「参預会議」の記事における「慶応3年(1867年)の四侯会議」の解説
詳細は「四侯会議」を参照 慶応2年(1866年)末に15代将軍に就任した慶喜は、兵庫開港をめぐる問題を解決すべく、朝廷工作を行う。それに対し、諸侯会議路線の推進を図った薩摩の主導により、翌年5月13日に久光、容堂、宗城、春嶽を集めて国事を議論する四侯会議が設けられた。いわば参預会議の再現である。しかし今度は逆に久光が長州の寛典を主張、慶喜が断固兵庫開港を優先するという、参預会議と逆の展開となった。薩摩の意図を見抜いた慶喜が佐幕派公卿を味方につけ、徹夜の朝議で条約勅許を強引にもぎとったため、四侯会議も短期間で崩壊。以後、薩摩は倒幕へ向けて舵を切ることとなる。
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