張仁蠡とは? わかりやすく解説

張仁蠡

(張仁レイ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/02 17:57 UTC 版)

張 仁蠡(ちょう じんれい)は中華民国の政治家。冀東防共自治政府中華民国臨時政府中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)で要人となった。祖籍は直隷省(現在の河北省南皮県範卿張之洞の第十三子である。兄は張燕卿、甥は張厚琬(ただし燕卿・仁蠡の方が年下)で、いずれも政治家。娘は張厚粲(心理学者・中国人民政治協商会議全国委員会委員)。


  1. ^ 徐主編(2007)、1770頁による。『人民日報』1951年5月23日、第6版も同様に「五十二歳」(数え年と考えられる)としている。
  2. ^ a b c d 徐主編(2007)、1770頁。
  3. ^ 資料によっては、張仁蠡は秘書処長を当初兼任したとされる(『外交時報』76巻6号通号745号、1935年12月15日、194頁)。しかし、秘書処長を当初兼任したのは外交処長の寉実(読みは「かく じつ」。『国際評論』5巻1号、1936年1月、239頁及び『経済雑誌ダイヤモンド』23巻36号、1935年12月1日号、56ページ)とする資料もある。寉実については、自治委員会設立後の11月25日午前に外交処長として北平へ派遣され、日本大使館等に自治委員会設立を通知した事績のみが残るが(『国際評論』5巻1号、1936年1月、241頁)、この活動を最後に詳細な動向がうかがえず、自治政府の一員としての記録も見当たらない。
  4. ^ 『同盟旬報』1巻5号、1937年8月上旬号、同盟通信社、201頁。臨時弁事処には総務組を含む四組が設置され、財政組では張志遠と江華、交通組では王厦材、治安組では劉宗紀がそれぞれ執務を担当した。
  5. ^ 森岡は当時、漢口領事館で武官を務めていた。
  6. ^ a b 荊楚網。
  7. ^ 『同盟時事月報』9巻2号通号225号、同盟通信社、1945年3月14日、78頁。
  8. ^ 『人民日報』1951年5月23日、第6版。同日に処刑された著名人物としては、張海鵬池宗墨富双英張仲直などがいる。


「張仁蠡」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「張仁蠡」の関連用語

張仁蠡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



張仁蠡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの張仁蠡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS