大ブルガリア公国とは? わかりやすく解説

ブルガリア公国

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/02 14:44 UTC 版)

ブルガリア公国[注釈 1](ブルガリアこうこく、ブルガリア語: Княжество България / Knyazhestvo Bulgaria)は、1878年から1908年にかけてバルカン半島に存在した公国である。露土戦争の結果として1878年3月に結ばれたサン・ステファノ条約により、オスマン帝国の宗主権下で広範な自治権を有する自治公国として成立した。


注釈

  1. ^ 日本語文献における国家名の訳例は多岐にわたる。佐原 (1998)Княжество Българияの直訳である「ブルガリア公国」を用いている[2]のに対し、ヘッシュ (1995)(佐久間訳)は「ブルガリア自治侯国」を用いている[3]木村 (1998)クランプトン (2006)(高田・久原訳)は「ブルガリア公国」[4][5]と「ブルガリア自治公国」[6][7]を併用している。なおサン・ステファノ条約で構想されベルリン条約で立ち消えとなった、巨大な領土を有するブルガリア国家を指して、大ブルガリア概念との関連から「大ブルガリア公国」という言葉が用いられることもある[2][8]。ただし、サン・ステファノ条約のロシア語原文で言及されている国家名は「ブルガリア公国」(Княжества Болгарии)である[9]ブカレスト条約等、国家成立後の対外条約の条文でも「ブルガリア公国」(Principauté de Bulgarie)が用いられている[10]
  2. ^ 王国時代の1912年の第一次バルカン戦争まで[59]
  3. ^ クランプトン (2006)(高木・久原訳)は「弟」としている[63]が、ニコライは1842年生まれであり[64]、アレクサンドル(1844年生[65])の兄とするのが正しい。
  4. ^ 19世紀前半からブルガリアの教会がギリシア人のコンスタンティノープル総主教座からの分離を試みる運動が起き、1870年以降はコンスタンティノープルに居を置く総主教代理を長とするいわゆるブルガリア正教会と、総主教を長とするギリシア正教会が分裂し、両民族と結びついて対立を続けていた。#ブルガリア正教会節も参照。
  5. ^ フェルディナントはスタンボロフ政権時代の1893年に、初代公以外のブルガリア公が正教会に属するよう求める憲法条項を改正して、自身と同じカトリック教徒であるブルボン=パルマ家マリヤ・ルイザと結婚していた。翌年にボリスが誕生すると、マリヤ・ルイザの意向に従い、教会の反対を押し切りカトリック教徒としてボリスを育てていた[74]
  6. ^ ツァールЦар)という称号は、中世ブルガリア帝国においては「皇帝」と訳される。ロシア皇帝(ツァーリ)も同一の称号である。このためフェルディナントを皇帝、ブルガリア国家を「第三次ブルガリア帝国」と称する場合もある。ただし対外的にはフェルディナントは王(King)、ブルガリア国家は王国(Kingdom)として認知されることが多かった[84]クランプトン (2006)(高田・久原訳)は一貫して「ブルガリア国王」「ブルガリア王国」を用い、木村 (1998)は独立宣言についてフェルディナントが「皇帝」を名乗り「クニャージェストヴォ(公国)」が「ツァールストヴォ(帝国)」となった[85]としつつも、他所では「国王」を用いている[86]
  7. ^ 独立宣言では、先代のブルガリア公アレクサンダルも遡って「解放者たるツァール」(Цар Освободител)と呼ばれている[87]
  8. ^ 民族について自己認識が無い者を含む。

出典

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大ブルガリア公国(1879年 - 1908年)

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1878年サン・ステファノ条約によってブルガリア自治権認められる

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