千坂・色部の加担
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 06:25 UTC 版)
千坂と色部の両奉行は、反対派を括って抑えておかないと暴発してお家騒動になると懸念しての一味加担であったとする説もある。少なくとも色部に関しては、 治憲が改革を開始するに当たり、千坂を通して国許の重役たちに対し通達した趣意書『志記』の中で「このたびの改革は私自身が色部と論議の上、色部も賛同したことである」と述べられている。 明和4年9月13日(1767年10月5日)に治憲と共に白子神社へ倹約誓詞を納めに行き、誓詞の中で「他者が改革に反対しようとも、自分は改革を支持する」と述べている。 明和8年6月5日(1771年7月16日)早朝に治憲・竹俣と共に愛宕山に登って降雨祈願を行った。 ことから、改革に対してはむしろ協力的であったと見る説がある。
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