北京機関
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北京機関(ペキンきかん)は1950年、書記長の徳田球一や野坂参三ら日本共産党の一部幹部が、正規の手続きによらずに中央委員会を解体し、非合法活動に移行するなか、中国に渡航してつくった機関。ソ連や中国の資金援助を受けて、51年綱領等に基づき武装蜂起式の日本革命を指導した。日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った。現在、日本共産党は北京機関について、「徳田、野坂らが党の方針に背いて党を破壊して、勝手に中国に亡命してつくり、ソ連・中国流の武装闘争の方針を持ち込んだもの。党とは無関係であり、その誤った方針の克服を通じて今日の党がある」としている[1]。
- ^ 不破哲三「日本共産党の歴史と綱領を語る」2000年7月20日、日本共産党創立78周年記念講演
- ^ 『生還者の証言』p226
- ^ 『生還者の証言』p224、226。この政治局会議は元海軍大将吉田善吾邸の一室でおこなわれたという。
- ^ 『生還者の証言』p223 - 227
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.131
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.133
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.140
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.144
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.145
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.156
- ^ 『生還者の証言』P225、243 - 244
- ^ 『生還者の証言』p225
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.139
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.148
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.143
- ^ 『日本共産党の七十年』党史年表 p.152
- ^ 渡部富哉 白鳥事件関係裁判資料の公開と真相をめぐって ちきゅう座、2009年12月5日
- ^ 樋ロ篤三 めしと魂と相互扶助―私の半世紀の実践総括をかねて(その一) ちきゅう座、2001年正月記
- ^ 『日本労働年鑑』第24集 1952年版 臨時中央指導部の設置と全国代表者会議
- 1 北京機関とは
- 2 北京機関の概要
- 3 日本に残された臨時中央指導部
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