五島崩れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 08:54 UTC 版)
五島崩れ(ごとうくずれ)は、明治時代に五島(長崎県の五島列島)で隠れキリシタン(潜伏キリシタン)が摘発された事件。
- ^ a b c d e f g h i j 「五島のキリシタン」H・チーリスク監修 太田淑子編 『キリシタン』 東京堂出版 、254-255頁。
- ^ a b c d e 長崎県高等学校教育研究会・地歴公民部会歴史分科会編 『長崎県の歴史散歩』 山川出版社 、同書236-238頁。
- ^ a b c d 文:吉田さらさ 『長崎の教会』 JTBパブリッシング 、82-83頁。
- ^ 「寛政九年藩主盛運、大村の農民一〇八人を五島に移し、田地を開墾せしむ。五島は地広く人少なくして、山林の未だ開けざるもの多きを盛運公常に憂い給い、此度大村候に乞うて、其の民を此地に移し給ふ。」(『公譜別録拾遺』)。
- ^ 当初、1000人を要請したことから、「千人養い人」または「千人貰い人」と称された。
- ^ 外海の土地は狭く痩せていて、子供を間引きして人口増加を抑制させられていた。
- ^ 外海地方には『子捨て郷』という地名も残っている(小崎登明 『西九州 キリシタンの旅』 聖母の騎士社、同書323頁)。
- ^ 片岡弥吉 『長崎のキリシタン』 聖母の騎士社、同書46 - 48頁。
- ^ 公譜別録拾遺・五島キリシタン史・五島村別郷土誌。
- ^ a b 小崎登明著 『西九州 キリシタンの旅』 聖母の騎士社、同書 18-19頁。
- ^ 『旅する長崎学 キリシタン文化Ⅳ』 長崎文献社、41頁。
- ^ 「一 浦上・天草・木場・五島」津山千恵著 『日本キリシタン迫害史 一村総流罪3,394人』 三一書房、113-115頁。
- ^ a b c d e 「五島のキリシタン弾圧」H・チーリスク監修 太田淑子編 『キリシタン』 東京堂出版、295-296頁。
- ^ 宮崎賢太郎 『カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容』 吉川弘文館、120頁。
- ^ 片岡弥吉 『長崎のキリシタン』 聖母の騎士社、49-50頁。
- ^ 「入牢と拷問」片岡弥吉 『長崎のキリシタン』聖母の騎士社、160-163頁。
- ^ a b 《六坪の家牢に百九十人あまりが押し込められた》小崎登明著 『西九州 キリシタンの旅』 聖母の騎士社、95 - 96頁)。
- ^ a b c d 「牢屋の窄」 片岡弥吉 『長崎のキリシタン』聖母の騎士社、163-166頁。
- ^ a b c 《有名、無名、百九十人を刻んだ牢屋の窄の記念碑》小崎登明著 『西九州 キリシタンの旅』 聖母の騎士社 、94頁。
- ^ 小崎登明 『西九州 キリシタンの旅』 聖母の騎士社、97頁。
- ^ マルナス『日本キリスト教復活史』。
- ^ 隠れキリシタンの役職の1つ。
- ^ a b c d e f 「その他の迫害」 片岡弥吉 『長崎のキリシタン』聖母の騎士社、166-176頁。
- ^ なお、牢屋の窄殉教記念聖堂内部は原則として非公開となっているため、通常は中を見ることはできない。
- ^ 文:吉田さらさ 『長崎の教会』 JTBパブリッシング、98頁。
- ^ 文:吉田さらさ 『長崎の教会』 JTBパブリッシング、104-105頁。
- ^ 「頭ヶ島教会」『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』 平凡社 、703頁。
- ^ 小崎登明 『西九州 キリシタンの旅』 聖母の騎士社、93頁。
[続きの解説]
- 五島崩れのページへのリンク