三菱鉱業美唄鉄道線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/24 13:35 UTC 版)
美唄鉄道線(びばいてつどうせん)は、北海道美唄市の美唄駅から三菱美唄炭鉱の事業所が存在した常盤台駅間を結んでいた三菱鉱業運営の鉄道路線である。1972年(昭和47年)に廃止された[2]。
注釈
- ^ a b ただし美唄駅-美唄炭山駅間のデータ。美唄炭山までの途中停車駅は我路駅のみで、盤の沢駅は記載されていない。また路線名を沼貝線と称している。国鉄が当時乗り入れていたかどうかは不明。
- ^ 既に1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて黒柳金二郎が周辺21鉱区の試掘権を得ていたが、採掘せずに放置していた。その場所へ後から石狩石炭が進出してきたため鉱区係争が発生し、黒柳は隣接する我路等に鉱区を所有する中央大学出身の弁護士である飯田延太郎を弁護人に立てて争った。この結果、石狩石炭側は敗訴して権利を主張する鉱区の多くを失うことになった。一方で勝訴した黒柳も採掘に到る資金が無く、4年にわたる訴訟費用の捻出にも苦慮する有様であったため、弁護費用の返済を含めて飯田へ鉱区一切を売却することとなった。なお、石狩石炭は多くの鉱区を失ったが、なおも滝の沢等の大きな鉱区を有し、その開発を急ぐと同時に鉄道敷設の再開を申請した。
- ^ 飯田は炭層調査によって有望鉱区と確認すると、飯田美唄炭鉱として1913年(大正2年)11月に開坑。向こう8年間の石炭販売権を担保に三菱合資会社に資金援助を要請した。また石狩石炭が専用鉄道の再敷設を申請すると、石炭輸送に支障が出るのを恐れて対抗する形で軽便鉄道敷設願いを提出。付近に農場を所有していて自己の土地の開発を目論む桜井良三も、飯田を援護する形で軽便鉄道願いを提出した。後に石狩石炭が自社独占の「専用鉄道」から一般営業が義務付けられた軽便鉄道法に基づく私鉄である「軽便鉄道」に申請を切り替えたこと、既に40余万円(当時の企業物価指数を1.0とすると現在の金額にしてその約650倍の25億円前後)もの巨額な投資を行なっていることを考慮して石狩石炭側に免許された。
- ^ 石狩石炭は自社の所有する鉱区からは採炭に至らず、当時の当鉄道は飯田美唄炭鉱からの石炭輸送が主要貨物となってしまっていた。三菱は飯田に働きかけて買収させたとされる。
- ^ 売却の理由については諸説があるが、『三菱鉱業社史 三菱鉱業セメント編』によれば、知人の伝聞として「手宮、室蘭などの道内主要積出港に自前の貯炭場が無いため、今後の展開に望みが持てなかったから」といった趣旨の内容を述べたとされる。
- ^ 『私鉄史ハンドブック』等では「9月29日譲渡」とあるも、美唄鉄道の会社登記届では「(10月)10日に鉄道全部を引き継ぎ、11日より弊社に於て営業」とあり、売買契約締結日と実務上の引継日の相違か。なお、譲渡認可は9月27日付。
出典
- ^ a b 『昭和3年版 線路一覧略図』(札幌鉄道局発行)
- ^ a b c 『鉄道ファン』第3巻第8号、交友社、1995年8月、67頁。
- ^ 明治39年設立本社東京『日本全国諸会社役員録. 明治40年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『美唄市史』(昭和45年7月発行)pp.442-444
- ^ a b 『美唄市史』
- ^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1913年10月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年11月12日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軽便鉄道停車場名改称」『官報』1918年9月5日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年12月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鉄道起業廃止」『官報』1937年3月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「運輸省告示第53号」『官報』1950年3月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 北海道美唄市で、「てくてく美唄炭鉱」開催 - WBF
- ^ 【耳より】炭都支えた鉄道 特別展『読売新聞』朝刊2021年3月26日(北海道面)
- 1 三菱鉱業美唄鉄道線とは
- 2 三菱鉱業美唄鉄道線の概要
- 3 概要
- 4 運行形態
- 5 接続路線
固有名詞の分類
- 三菱鉱業美唄鉄道線のページへのリンク