ムラクとは? わかりやすく解説

ムラク

名前 Mulak

ムラク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 08:24 UTC 版)

ムラクモンゴル語: Mulaq、生没年不詳)は、大元ウルスに仕えたアルラト部出身の高官の一人。モンゴル帝国建国の功臣の一人、アルラト部ボオルチュの曾孫にあたる人物。


  1. ^ 『元史』巻119列伝6博爾朮伝,「玉昔帖木児……子三人:木剌忽、仍襲爵為万戸。次脱憐。次脱忒哈、為御史大夫」
  2. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1、「[至大四年冬十月] 戊子……特授故太師月児魯子木剌忽栄禄大夫・知枢密院事」
  3. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1、「[皇慶元年夏四月]壬午……封知枢密院事木剌忽為広平王」
  4. ^ 『元史』巻108諸王表,「広平王:木剌忽駙馬。哈班、天暦二年封」
  5. ^ 『元史』巻26仁宗本紀3、「[延祐六年三月]辛酉……詔以御史中丞脱忒哈為御史大夫、諭之曰『御史大夫職任至重、以卿勲旧之裔、故特授汝。当思乃祖乃父忠勤王室、仍以古名臣為法、否則将墜汝家声、負朕委任之意矣』。」
  6. ^ 『元史』巻27英宗本紀1、「[延祐七年五月]戊戌、有告嶺北行省平章政事阿散・中書平章政事黒驢及御史大夫脱忒哈・徽政使失列門等与故要束謀妻亦列失八謀廃立、拜住請鞫状、帝曰『彼若借太皇太后為詞、奈何』。命悉誅之、籍其家」
  7. ^ 『元史』巻27英宗本紀1、「[延祐七年]六月己酉、流徽政院使米薛迷於金剛山。以脱忒哈・失列門故奪人畜産帰其主。……丙辰、召河南行省平章政事也先帖木児至京師、収脱忒哈広平王印」
  8. ^ 『元史』巻33文宗本紀2、「[天暦二年十一月]壬申、毀広平王木剌忽印、命哈班代之、更鋳印以賜」
  9. ^ 『元史』巻139列伝26阿魯図伝,「阿魯図、博爾朮四世孫。父木剌忽……至元三年、襲封広平王」
  10. ^ 岡田2010,191頁


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ムラク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 15:57 UTC 版)

ウォーザード」の記事における「ムラク」の解説

フヒトの弟。タオおかげでフヒト再会を果たす。セクメト撃破後に登場する

※この「ムラク」の解説は、「ウォーザード」の解説の一部です。
「ムラク」を含む「ウォーザード」の記事については、「ウォーザード」の概要を参照ください。

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