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ペプシコーラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/08 01:17 UTC 版)
| 種類 | コーラ |
|---|---|
| 製造元 | ペプシコ |
| 発祥国 | |
| 販売開始 | 1893年 |
| 関連商品 | コカ・コーラ 7 Up 他多数 |
ペプシコーラ(英語:Pepsi-Cola)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州に本社を置くペプシコ社の所有により、全世界で展開されているソフトドリンクブランドである。現在は同社のお菓子ブランドであるフリトレーと合併しているが、それ以前は社名でもあった。
目次 |
概要
アメリカの大手飲料メーカーであるペプシコ・インコーポレイテッド(PepsiCo, Inc,NYSE:PEP)が製造・販売を担当している。コーラの販売を主としていて、日本でもペプシコーラやダイエットペプシの名で、様々な種類のコーラを販売している。
コカ・コーラやRCなどの、ライバル企業もある中、ペプシコーラは独自の味を売りとして、大きな売り上げを果たしている。
歴史
ペプシコーラは、1894年にアメリカ合衆国ノースカロライナ州の薬剤師ケイレブ・ブラッドハムが消化不良の治療薬として売り出した飲料に起源を発する。当初の処方では消化酵素のペプシンが含有されていたので、1898年にペプシンに因んでペプシコーラと名前を変更した。
第一次世界大戦頃には全米25州にフランチャイズのボトリング工場を擁するまでに事業拡大したが、大戦中の砂糖相場の乱高下の打撃を受けて1922年に破綻した。ブラッドハムはコカ・コーラ社に会社売却を依頼したが、コカ・コーラを買収したばかりだったアーネスト・ウッドラフは、1ドルの価値もないと判断して拒否。結局、投資家のロイ・メガーゲルがペプシを買収するものの、経営は振るわず1933年に再度会社売却することになる。
この時、ドラッグストアとソーダ・ファウンテンの経営者でコカ・コーラと利益の分配で対立していたチャールズ・ガズがペプシ社を買収、原液の配合をコカ・コーラに類似したものに変え、コーラの瓶より内容量の多いビール瓶に瓶詰めしてコカ・コーラと同じ値段で売る低価格戦略で攻勢に打って出た。これが当たり、ようやくペプシは経営が安定する。
第二次世界大戦下では軍需品として特別扱いされたコカ・コーラに引き離されてしまう[1]ものの、コカ・コーラから移籍してきたアル・スティールによって、自動販売機での販売を開始すると再び成長軌道に乗った。
1959年には、かつて顧問弁護士であったリチャード・ニクソン副大統領の紹介でソビエト連邦のニキータ・フルシチョフ書記長にペプシコーラを試飲させることに成功。1970年代にニクソンが大統領に就任、ペプシコーラはソビエト連邦政府と20年間の独占契約をした。これによりソ連と契約した最初のアメリカ製品となる。この後、ソビエト連邦ではペプシコーラは一般的に入手することが可能となり、他の共産圏諸国(東ドイツ、ルーマニアなど)でも販売された。
フリトレーやピザハット、ケンタッキーフライドチキン、タコベルなどを傘下におさめ、清涼飲料水以外の分野にも進出しているが、現在はレストラン事業はペプシコ・インクよりスピンオフし、トライコングローバルレストラン(現ヤム・ブランズ)となっている。
なお、ペプシコ社の社長であったロジャー・エンリコが、当時どのようにコカコーラ社と競争していったかを執筆している。
- ロジャー・エンリコ、ジェシー・コーンブルース『コーラ戦争に勝った! ―ペプシ社長が明かすマーケティングのすべて―』(原題:THE OTHER GUY BLINKED: HOW PEPSI WON THE COLA WARS)
日本における歴史
日本には1947年、GHQ専用に輸入されたが、一般販売は行われなかった。しかし、後に大統領となるニクソンが弁護士として市場開放のロビー活動をしていたのは有名な話である。
日本における一般販売は本土よりも早く、1954年に当時アメリカ統治下の沖縄で比嘉悦雄により開始される。コカ・コーラの6.5オンスに対して8オンスの容量、回収不要のワンウェイ瓶の導入で、当初はコカ・コーラを圧倒していた。
本土では、1957年に映画王と呼ばれた大映社長の永田雅一や朝日麦酒の山本為三郎なども関わる形で、ペプシ事業がスタートとなった。コカ・コーラが早くから三菱・三井などの大手財閥系企業を中心に大企業を次々とボトラーに抱えいれたのに対して、ペプシも伊藤忠商事・日綿実業(後のニチメン→双日)・宇部興産などの大手非財閥系企業を抱えいれて対抗するものの、日本全土にボトラーを設立することに大きな遅れを取ってしまい、先に大規模な資本・物量攻勢を行っていたコカ・コーラに敗北を喫することとなった(そのような状況下でも宇部興産がボトラー経営をしていた中国地区、コカ・コーラのほかにコアップガラナというライバルとしのぎを削りながら販売網を順調に広げた北海道地区、中日ドラゴンズめんこなど独自のノベルティを展開した中部地区は善戦していた)。ペプシ自社のルート以外にもボトリングを請け負っていた関係でチェリオコーポレーション(旧セブンアップ飲料関西・販売は現在も継続)やカゴメ(静岡、山梨地区でペプシ製品を製造販売していた)の他、提携という形でカルピス、ユニマットライフ(現ジャパンビバレッジ)等の自販機ルートを通じても販売されていた。
1997年に、日本に於ける事業(マーケティング及び製造販売総代理権)をサントリーに譲渡し、1998年以降、飲料部門のサントリーフーズが販売している。これにより、製造販売を請け負っていた地域ボトラーは、サントリーフーズとの関係が親密になった販社へと業態転換している。一方で、国内ペプシボトラーの最大手だったビバックス(旧宇部興産飲料・キリンビバレッジに株式譲渡)の離反なども発生している。例外的に、2007年から「クラシックデザイン」のみダイドードリンコが販売。ただし、「クラシックデザイン」もサントリーが製造し、ダイドードリンコに供給しているものである。
2010年3月の「ペプシネックス」のリニューアルに伴い、従来は大文字だったロゴマークを小文字に変え(PEPSI→pepsi)、グローブマークも変更された。しばらくは新規発売品(ストロングショット、バオパブ、モンブラン)にしか用いなかったが、2011年3月に「ペプシコーラ」・「ダイエットペプシ」・「ペプシツイスト」もパッケージリニューアルに伴い、新ロゴマーク・新グローブデザインに統一された。
マーケティング
「コーラ戦争」も参照
アメリカにおいて、1970年代にペプシコーラのマーケティングを担当し後に社長となったのがジョン・スカリーである。ジョン・スカリーはスティーブ・ジョブズに口説かれて1983年にアップルコンピュータに入社することになる。
ペプシコーラの宣伝でよく使われているのが、コカ・コーラと比較した比較広告である。その先駆けとなったのは、1975年に始めたペプシチャレンジというものであり、道行く人々にペプシコーラとコカ・コーラを、それぞれ区別出来ないようサーブして、どちらがうまいかを判定させるというものであった。このペプシチャレンジでは多くの人々がペプシに軍配を上げ、それがCMとして全米に流され、ペプシの業績向上につながった[2]。このペプシチャレンジのキャンペーンは日本でも実施されたが、放送倫理などの問題があってかこちらのコーラを選びましたと、ペプシを選んだデータだけを強調するものになっている。
この比較広告の方法は、アメリカでは大統領選挙などでも見られるポピュラーなものだが、日本人にはなじみが薄く受け入れられなかった。ことにM.C.ハマーが出演した比較広告は、日本でも放送されたもののクレームがつき、後にコカ・コーラの商品名にモザイクを入れて放送したというエピソードもある[3]。それ以降も、モザイクなどで隠されてはいたが、「UFOがコカ・コーラとペプシコーラを1缶ずつ吸い上げた後、ペプシコーラだけを自動販売機ごと持ち去る」「自動販売機のボタンに手が届かない少年がコカ・コーラのビンを踏み台にしてペプシコーラを購入する」「コカ・コーラっぽいロゴ(モザイクなし版でコカ・コーラのロゴによく似せた別物であることが分かる)のトラックの運転手がペプシコーラを激しく求める」「ダイエットペプシのカロリーはコカ・コーラライトの11分の1であることを名指しで指摘(1kcalと11kcalの差であったが)」などの挑戦的なCMを放送した。またイチロー、デビッド・ベッカムなども日本版限定でCMに出演していた。
日本における販売活動では、現在に続く「おまけ」「ノベルティ」など付加価値を重視したマーケティングを行ってきた。王冠裏に「~円」という文字があると、その分の現金が貰えるというのもペプシが先駆けである。テレビCMにおいては、王貞治やルパン三世がイメージキャラクターを務めたことがあり、そのノベルティが消費者を魅了した。特に前者においては、ホームラン世界記録が掛かった1977年に大規模なキャンペーンを繰り広げ、「50円で1.5倍」を売り文句にした300mlの瓶入りペプシの発売と共に、人気はコカ・コーラに迫るものがあった。時期尚早のため成功はしなかったものの、他社に先駆けて日本市場にダイエットペプシを導入したのもこの頃である。しかし、その勢いも1980年代に入ると急激に衰えていく。市場シェアが年々下落していき、ペプシのCM自体があまり見られなくなっていった。1981年に発売したマウンテンデューは大ヒットしたものの、従来の看板商品であるペプシコーラやミリンダの低迷に歯止めがかからず、コカ・コーラとの差は広がる一方だった。
80年代の低迷期を経て、ようやく1991年頃から日本市場へのテコ入れが始まった。積極的にテレビCMを出稿し自動販売機の数を増やしていった。基本的に、CMはアメリカから輸入し、その他製品のCMは日本にて製作していた(例:セブンアップやバーディコーヒー、マウンテンデュー、フルーピーなど)。
1998年から、コカコーラの赤に対抗して青をシンボルカラーにすることが前面に打ち出される。当時、コカコーラに対する挑戦者(青コーナー)であることを宣言する広告が展開された。
ペプシマンなど、飲料への首掛け景品、ボトルキャップブームを創り出し、オープン懸賞も『2001年宇宙の旅』プレゼント(現在のところ未催行)やペプシマンの愛車、シボレー・コルベットのプレゼントなど、話題性の高い懸賞を次々と実施している商品である。
レモン果汁入りコーラとして、日本では2003年にペプシツイストが発売。現在では世界中で販売されている。それまでにも喫茶店やレストランでコーラを注文すると、スライスレモンがついてくることはあったが、その果汁を絞って缶入りにすればいいという発想から生まれた。
2006年春、日本人の味覚にあわせた「カロリーゼロ」「レモン風味」の味わいで、日本発コーラであるペプシネックスを発売。サントリーが全面的に開発に携わっており、現在の日本のペプシコーラの主力商品になっている。
関連イベント
- ペプシチャレンジ
- ペプシカップ全日本バレーボール小学生大会
- ペプシコーラ読売ランド夏BOYコンテスト
日本のペプシボトラーズ(販売会社)
- サントリー
- サントリーフーズ(日本総販売元)
- 北海道ペプシコーラ販売
- 東北ペプシコーラ販売
- 北関東ペプシコーラ販売(茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県)
- 日本ペプシコーラ販売(東京都・神奈川県・千葉県・山梨県)
- 中部ペプシコーラ販売(滋賀県含む、2010年4月1日、東海に北陸、信越を吸収して改称)
- 近畿中国ペプシコーラ販売(滋賀県除く、2010年4月1日、近畿に中国を吸収して改称)
- 徳島ペプシコーラ販売(徳島県のみ。旧宇部ペプシコーラ販売の徳島統括部門を継承)
- ジャパン福岡ペプシコーラ販売(福岡県・佐賀県・長崎県。別名はペプシコーラ福岡店)[4]
- 南九州ペプシコーラ販売(熊本県・大分県・宮崎県・鹿児島県)
- 沖縄ペプシビバレッジ
- サンベンド
- 九州サンベンド
- 過去
- ビバックス(中国地方。旧西部飲料→宇部興産飲料。現在はキリンビバレッジのボトラー)
- チェリオコーポレーション(旧・セブンアップ飲料関西。元々存在した関西のボトラーが会社清算した結果、フランチャイズとなる。現在も販売自体は継続の模様)
- チェリオ中部(旧・中部ペプシコーラボトリング。現在でもペプシの販売は継続の模様)
- カゴメ(静岡県および山梨県でペプシのフランチャイズをしていた。1992年に提携解消)
固有名詞の分類
ペプシコーラに関連した本
- コーラ戦争に勝った!―ペプシ社長が明かすマーケティングのすべて (新潮文庫) J. コーンブルース 新潮社
ペプシコーラに関係した商品