プリンス・オブ・ウェールズ_(戦艦)とは? わかりやすく解説

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プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/02 15:15 UTC 版)

プリンス・オブ・ウェールズ (英語: HMS Prince of Wales) は、イギリス海軍戦艦[注釈 1]キング・ジョージ5世級の2番艦[2][注釈 2]。艦名プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公)は、英国の王太子に相当する儀礼称号である。


注釈

  1. ^ (上)逃げまどふ英艦[1] 左(中央)はプリンス・オブ・ウエールズ、最後方がレパルス、手前は我が猛爆をうけて逃げまどふ英驅逐艦。/(中)プリンス・オブ・ウエールズの性能 排水量三五,〇〇〇トン、一九四一年四月竣工、速力三〇節以上、十四インチ砲十門、五.二五インチ砲十六門を装備し搭載機四、英國主力艦中の最新鋭艦である。/(下)レパルスの性能 排水量三二,〇〇〇トン 一九一六年竣工、速力二九節、十五インチ砲六門、四インチ砲十二門、四インチ高角砲八門搭載機四を装備してゐる 猶、プリンス・オブ・ウエールズは、昨年八月北大西洋上に於てルーズヴエルト、チヤーチル洋上會談が同甲板上で行はれ、かつ友邦ドイツのビスマルク撃沈にも参加した艦であることは記憶に新たなるところであり、レパルスは一九四〇年十月獨潜水艦スカパーフロー襲撃の際辛くも撃沈を免れた艦である。 
  2. ^ 同級は、35.56 cm (14インチ) 砲を四連装砲塔2基(前部、後部に各一基)連装1基(前部に配置)計10門を装備する[3]
  3. ^ ウェールズはビスマルクに何発かの命中弾を与え、小破させた[10]。ビスマルクはウェールズとの交戦による損傷が原因で燃料不足になり、大西洋での通商破壊作戦を諦めてフランス西部のドイツ海軍基地に帰投することにした[11]
  4. ^ マレー沖海戰[19] 英の東洋艦隊早くも茲に潰滅す。/ 十二月十日 マレー東岸クワンタン沖に我が爆撃機、雷撃機隊は英が不沈戰艦と傲語するプリンス・オブ・ウエールズ及び戰艦レパルスを捕捉して挺身猛撃、海鷲獨特の必中彈を浴びせてこれを轟撃沈せしめた。/プリンス・オブ・ウエールズの長官艇の遺品/ 昭和十六年四月完成、三萬五千噸、最新鋭主力艦たるこのプリンス・オブ・ウエールズの艦上同年八月にチャーチル、ルーズヴエルト會談が行はれた。寫眞は艦上のチヤーチル(後甲板を散歩するチャーチル写真)/ レパルス(上)プリンス・オブ・ウエールズの最後―午後零時四十三分撮影。レパルスは命中彈で氣息奄々、午後二時二十九分轟沈。プリンス・オブ・ウエールズは艦中央から艦尾にかけ數發の命中彈をうけて、暫時遁走せるも、同二時五十分、英東洋艦隊司令長官サー・トーマス・フィリツプスを乗せたまゝ大爆發を起して沈没。
  5. ^ 戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(東洋艦隊旗艦)、巡洋戦艦レパルス、駆逐艦4隻(エクスプレステネドスエレクトラヴァンパイア)。
  6. ^ 馬来部隊指揮官は、南遣艦隊司令長官小沢治三郎海軍中将であった[24]
  7. ^ プリンス・オブ・ウェールズと共に巡洋戦艦レパルス (HMS Repulse) も沈没した[29]
  8. ^ 12月10日16時5分、大本営海軍部発表[30]〔 帝国海軍は開戦劈頭より英東洋艦隊、特にその主力艦二隻の動静を注視しありたるところ 昨九日午後帝国海軍潜水艦は敵主力艦の出動を発見 午後帝国海軍航空部隊と緊密なる協力の下に捜索中、本十日午前十一時半マレー東部クワンタン沖に於て再び我が潜水艦これを確認せるをもって 帝国海軍航空部隊は機を逸せずこれに対し勇猛果敢なる攻撃を加へ 午後二時二十九分戦艦レパルスは瞬時にして轟沈し 同時に最新式戦艦プリンス・オブ・ウェールズは忽ち左に大傾斜暫時遁走せるも間もなく午後二時五十分大爆発を起し遂に沈没せり ここに開戦第三日にして早くも英国東洋艦隊主力は全滅するに至れり 〕
  9. ^ 八、マレー沖海戰[33] 開戰匆々ハワイ海戰においてアメリカ太平洋艦隊主力はわが海軍精鋭の敢行した大奇襲作戰によつて脆くも潰え去つたのであるが、マレー方面においてはわが上陸作戰を阻止すべくイギリスが世界にその最新鋭を誇る戰艦「プリンス・オブ・ウエールズ」と高速戰艦「レパルス」の出動となつたのである。この二戰艦がマレー半島沖を北上中なる旨の報告が哨戒中の潜水艦からもたらされたのは十二月九日の午後であつた。航空部隊は直ちに基地を出撃したが、その日は惡天候のためつひに敵艦隊を發見することが出來なかつた。十日午前三時四十分潜水艦から敵艦がシンガポールに遁走中なる旨の報があつた。かくてわが航空隊は暁方より索敵をつゞけたが、つひに午前十一時四十五分、北緯四度、東經百三度五十五分の點において敵主力が驅逐艦三隻を從へて航行中を發見、午前零時四十五分爆撃機隊の猛撃は開始された。かくてイギリスが「不沈戰艦」として誇るプリンス・オブ・ウエールズ及びレパルスの二艦と大型驅逐艦一をマレー沖の藻屑と化せしめ、イギリス東洋艦隊の主力を潰滅せしめたのである。さきのハワイ海戰の戰果とともにこの戰果は世界戰史上その例を見ないものである。/プリンス・オブ・ウエールズ號(東洋艦隊司令長官トーマス・フイリツプス坐乗、艦長J・C・リー大佐)要目=一九四一竣工、排水量三万五千トン、速力三十ノツト、主砲十四インチ砲十門、高角機銃二十五聯装三基、二十聯装一基、八聯装空ポムポム砲四基、搭載機四機/レパルス號(艦長J・G・テナント大佐)要目=一九一六年竣工(一九三六年改装)排水量三万二千トン、速力二十九ノツト、主砲十五インチ砲六門、副砲四インチ砲十二門、高角砲四インチ砲八門、二十一インチ魚雷發射管八基、搭載機四機。
  10. ^ トーヴィー大将自身は、旗艦キング・ジョージ5世、空母ヴィクトリアス、巡洋戦艦レパルスを率いることになっていた[50][51]。トーヴィー戦隊は5月22日夜に出撃した[52]
  11. ^ 駆逐艦6隻の内訳は、エレクトラアンソニーエコーイカルスアキティーズアンテロープであった[34]
  12. ^ リュッチェンス部隊に触接したのは[54]、第一巡洋艦戦隊(司令官フレデリック・ウェイク・ウォーカー英語版少将)の重巡洋艦ノーフォーク(旗艦)とサフォークであった[55][56]。またフッドとウェールズに随伴していた駆逐艦部隊のうち、燃料不足で駆逐艦2隻が離脱し、残りは荒天候下でも高速を発揮できる戦艦2隻についてゆけなくなった[57]
  13. ^ ノーフォークにはウォーカー少将が座乗していたが、ホランド中将(フッド)の方が先任であるため、デンマーク海峡海戦では精彩を欠いた[65]。ホランド中将はウォーカー少将の重巡2隻でプリンツ・オイゲンを片付けるつもりだったが、無線封止をしていたので意図が伝わらなかった[66]。あるいは砲戦中のため、命令を出す時機を逸した[63]
  14. ^ ウェールズのリーチ艦長は、後日の調査会でフッド轟沈時のスケッチを提出している[70]
  15. ^ プリンツ・オイゲンの煙突基部付近で回収された巨弾の断片は、巡洋戦艦フッドのものとされた[83]。だが分析の結果、ウェールズの主砲弾であることが判明した[84]
  16. ^ リュッチェンス提督は上級司令部に「19時14分 キング・ジョージ五世と短時間交戦したが、戦果なし。プリンツ・オイゲン、燃料補給のため離脱。敵は現在もなお触接を堅持」と報告した[102]
  17. ^ ルーズベルト大統領は重巡洋艦オーガスタ (USS Augusta, CA-31) でアルゼンチア海軍基地に到着しており、駆逐艦マクドゥガル (USS McDougal, DD-358) でウェールズに乗艦した。ウェールズとオーガスタ双方の乗組員で合同の日曜礼拝が開かれている[17]
  18. ^ 当初、チャーチルは最新鋭艦デューク・オブ・ヨーク (HMS Duke of York, 17) とレナウン級巡洋戦艦1隻、旧型空母1隻の極東派遣を主張した[119]アレキサンダー海軍大臣パウンド第一海軍卿は反対している。
  19. ^ フィリップス中将は11月25日付で海軍大将に昇進した。
  20. ^ イギリス中国艦隊(支那方面艦隊)はプリンス・オブ・ウェールズがシンガポールに到着した12月2日付で解隊された[32]
  21. ^ 結局ハーミーズはZ部隊に同行せず、またインドミタブルも間に合わなかったので、直掩戦闘機を欠いたウェールズとレパルスが呆気なく沈没する一因となった[135]
  22. ^ これが大和型戦艦で、1番艦の大和[141](1937年11月4日起工、1940年8月8日進水、1941年12月16日竣工)は[142]、18インチ砲9門、基準排水量64,000トン、速力27ノットであった[143]
  23. ^ 七、マレー戰の驚異[145] 撃沈した隻數はハワイ海戰の場合よりも少ないから、世上或はマレー海戰の戰果をヨリ小さいと考へるものがあれば、それは大間違ひである。戰果に甲乙なく、共に世界的且つ歴史的の大戰勝であり、さうして今後の海戰略に重大なる示唆を與へ、更に敵主力の進攻戰に期間的終止符を打つた點で全く相匹敵するものである。/ 異なる所はハワイ戰が敵の主力を根據地碇泊中に撃滅したのに對し、マレー戰は洋上の機動に於て撃滅した點にある。即ち空中魚雷と爆彈とによる攻撃戰の二つの場合が、殆ど時を同じうして東と南とで實演され、共に成功の標本を作り上げたわけである。/ 筆者は我が海軍航空部隊が、世界的新鋭戰艦プリンス・オブ・ウエールズ號に對し、必殺の攻法によつて大打撃を與へ得るだらうとは考へたが、彼れを撃沈することは出來ないであると豫想してゐた。レパルス、レナウン型の高速戰艦は、五月二十七日にフツドが撃沈された如く、高速戰艦固有の弱點の爲に撃滅の可能性はあると思つたが、キング・ジオージ・五世級の新戰艦に至つては、餘程多數の魚雷と重爆彈とを命中させなければ沈めることが出來ないし、斯かる命中は洋上の機動戰に於ては不可能だと考へたからである。/ プリンス・オブ・ウエールス號は『空軍に對する戰艦の将來』を調査したインスキツプ委員會の報告に基き當時イギリスにも流行した戰艦無用論を尻目にかけて起工された新工夫の代表艦である。即ち空中からの攻撃に對しては特殊鋼を以て特殊の型式による防備を施し、水中攻撃に對しても強力なる抵抗力を附與し、その爲に防禦鋼の重量が一萬四千トンに達したといふ記録を持つ。/ 一方に對空攻撃武器としては、五吋高角速射砲八門の外に、四聯集装のポムポム砲― 一装は半吋強の機關砲八門から成る― 二基を備へ、即ち六十四門から噴水の如く間斷なく打ち上げる彈幕で敵の急降下爆撃機を事前に粉碎する用意を持つてゐた。
  24. ^ 三和によれば、山本長官の発言は相手の自信の程度を確かめるための話術であったという[148]
  25. ^ キング・ジョージ5世とプリンス・オブ・ウェールズはキングジョージ5世級戦艦の同型艦、レナウンとレパルスはレナウン級巡洋戦艦の同型艦である[147]
  26. ^ 第三戦隊(司令官三川軍一中将)[153]の金剛型4隻(金剛、比叡、榛名、霧島)のうち、三川中将直率の第1小隊(比叡霧島)は南雲機動部隊護衛艦艇としてハワイ作戦に参加[154]、不在[155]
  27. ^ 宇垣纏『戦藻録』(1941年12月10日記事)〔 十二月十日 水曜日 雨 (X-2) アバリ、ビカン上陸成功。馬来沖海戦。特別攻撃隊。ギルバート占領 〕[165]
  28. ^ 馬来部隊のマレー半島コタバル上陸は、真珠湾攻撃よりも一時間はやく12月8日午前2時15分から実施された[170]
  29. ^ 駆逐艦4隻の内訳は[173]エクスプレステネドスエレクトラヴァンパイアであった[172]
  30. ^ この部隊は第25軍[174](司令官山下奉文中将)が指揮していた[175][176]。12月8日早朝、同部隊はコタバル上陸作戦を敢行して成功した[177]
  31. ^ レパルスの生存者は駆逐艦ヴァンパイア (HMAS Vampire, I68) とエレクトラ (HMS Electra, H27)) に収容された[203]
  32. ^ 1942年(昭和17年)2月20日のニューギニア沖海戦では、空母レキシントンを攻撃した一式陸上攻撃機が直衛のF4F戦闘機に迎撃され、全滅に近い損害をうけながら、全く戦果をあげられなかった[225]

脚注

  1. ^ ハワイ海戦、マレー沖海戦 1942, p. 31(原本38-39頁)
  2. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 68–73イギリス、キング・ジョージ5世級
  3. ^ 福井、日本戦艦物語(II) 1992, pp. 353–354列強の戦艦建造計画について ◇イギリス海軍
  4. ^ 福井、日本戦艦物語(II) 1992, pp. 195–196世界をあげての巨艦時代
  5. ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 61.
  6. ^ ジョーダン、戦艦 1988, p. 73.
  7. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 18–19(ライン演習作戦各部隊行動図)
  8. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 115–118巡洋戦艦「フッド」轟沈
  9. ^ a b ヒトラーの戦艦 2002, pp. 218–222〈フッド〉轟沈
  10. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 118–121ビスマルクに三弾命中
  11. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 201–209(15)突然の変針命令
  12. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 122.
  13. ^ a b 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 218(北大西洋におけるビスマルク追撃態勢)
  14. ^ a b c ヒトラーの戦艦 2002, pp. 222–224当てのない追跡行
  15. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 125.
  16. ^ Barnett, p. 297-299
  17. ^ a b キーガン 2015, p. 163.
  18. ^ a b 帝国の落日(下) 2010, pp. 260–261.
  19. ^ 大東亞戰爭海軍作戰寫眞記録(1) 1942, p. 26原本22-23頁
  20. ^ グレンフェル 2008, p. 80.
  21. ^ a b c d ビスマルクの最期 1982, p. 415.
  22. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 153.
  23. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 100地図1 マレー半島とシンガポールの攻略ルートと主要関連地名
  24. ^ a b c d 智将小沢治三郎 2017, pp. 22–24.
  25. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 178a表15、日本軍攻撃隊一覧(元山空、美幌空、鹿屋空)
  26. ^ a b c 戦史叢書95 1976, pp. 181–182馬来部隊
  27. ^ a b 別冊歴史読本(45) 2009, pp. 110–111(1941.12.10)マレー沖海戦/英首相チャーチルを苦悩させた新鋭戦艦の撃沈
  28. ^ キーガン 2015, p. 168.
  29. ^ a b 戦史叢書95 1976, pp. 227–229マレー方面航空作戦、マレー沖海戦
  30. ^ a b c 戦史叢書80 1975, p. 113.
  31. ^ a b ニミッツ 1962, p. 30.
  32. ^ a b 戦史叢書80 1975, pp. 85–90マレー沖海戦
  33. ^ 南方圏要覧 1942, pp. 204–205(原本389-390頁)八、マレー沖海戰
  34. ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 69.
  35. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 117–119.
  36. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 100–101「ライン」演習作戦
  37. ^ 撃沈戦記 1988, pp. 336–338「ビスマルク」大西洋へ
  38. ^ 撃沈戦記 1988, pp. 339–340水平線上の艦影
  39. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 110–111防禦力で劣る巡洋戦艦
  40. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 68.
  41. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 130–131.
  42. ^ 撃沈戦記 1988, p. 338.
  43. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 132–135(9)情報はイギリス海軍省に
  44. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 22–24.
  45. ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 211–214ドラマのはじまり
  46. ^ a b 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 106–110「ビスマルク」出撃
  47. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 65–66.
  48. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 154–159(11)スカパ・フローに緊張走る
  49. ^ 木俣、大西洋・地中海 2004, pp. 140–141.
  50. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 62.
  51. ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 214–216〈ビスマルク〉はどこに
  52. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 78.
  53. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 70.
  54. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 167(ドイツ機動部隊、イギリス重巡と遭遇)
  55. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 89–96.
  56. ^ 木俣、大西洋・地中海 2004, pp. 143–144.
  57. ^ 撃沈戦記 1988, p. 339b.
  58. ^ 木俣、大西洋・地中海 2004, pp. 146–147(ビスマルク追跡図-1)(1941年5月23日午後7時22分~24日午前8時)
  59. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 175–200(14)フッド轟沈
  60. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 124–125(デンマーク海峡海戦~ヴィクトリアス攻撃まで)
  61. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 115.
  62. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 136–137.
  63. ^ a b c ビスマルクの最期 1982, p. 143.
  64. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 180.
  65. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 183.
  66. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 121.
  67. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 194(アイスランド沖海戦航跡図)
  68. ^ 撃沈戦記 1988, pp. 342–344第五斉射の一弾
  69. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 60–63イギリス、フッド級
  70. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 147–150.
  71. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 150–151.
  72. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 188.
  73. ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 152.
  74. ^ a b c ヒトラーの戦艦 2002, p. 221.
  75. ^ Garzke, p. 180
  76. ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 156.
  77. ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 154.
  78. ^ ジョーダン、戦艦 1988, p. 71.
  79. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 155.
  80. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 191–193.
  81. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 198.
  82. ^ Garzke, p. 179
  83. ^ a b c ビスマルクの最期 1982, p. 166.
  84. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 419.
  85. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 195.
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  89. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 197.
  90. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 170.
  91. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 171.
  92. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 159.
  93. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 176.
  94. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 211.
  95. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 185.
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  107. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 212.
  108. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 230.
  109. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 206.
  110. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 217–219.
  111. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 252–253(5月25日朝から5月27日まで、各艦航跡図)
  112. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 241(ビスマルク、触接を断つ)
  113. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 223.
  114. ^ 木俣、大西洋・地中海 2004, p. 155(ビスマルク追跡図-2)(1941年5月24日午前8時~27日午前10時36分)
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