フセスラフ・ブリャチスラヴィチとは? わかりやすく解説

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フセスラフ・ブリャチスラヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/25 07:14 UTC 版)

フセスラフ・ブリャチスラヴィチ[1]ベラルーシ語: Усясла́ў Брачысла́вічロシア語: Всесла́в Брячисла́вич1044年以前 - 1101年4月14日)は、キエフ大公(在位:1068年 - 1069年)、ポロツク公(在位:1044年 - 1068年、1071年 - 1101年)。ポロツクは現在のベラルーシの都市である。父はポロツク公ブリャチェスラフ1世。子にはポロツク公ログヴォロド、ヴィテプスク公スヴャトスラフロマン、ポロツク公ダヴィドミンスク公グレプ、ルコームリ公ロスティスラフ、ポロツク公ボリスがいる。孫にはプレドスラヴァなど[2]


  1. ^ 山田隆『『罪と罰』にみられるロシア人の名前について』によると古代スラブ語で「もっとも栄えある」といった意味。Все=全ての、最も、слав=栄光。
  2. ^ 日本古代ロシア研究会「リューリク王朝系図」(1981) ,p36
  3. ^ 『ノヴゴロド第一年代記』では1065年とする。また西方に大きな星が現れたと記す。
  4. ^ 除村「キエフ年代記」(1943),p464。なお、1178年にフセヴォロド1世の玄孫・ムスチスラフ・ロスチスラヴィチはこの事件の報復としてフセスラフの曾孫、フセスラフ・ヴァシリコヴィチの治めるポロツクへの遠征を試みるも兄のロマン・ロスチスラヴィチに阻まれた。(なお除村訳ではフセスラフの「祖父」の所業としているがスヴャトスラフにはノヴゴロド襲撃の事跡は無いため曽祖父の誤りと考え併記する)
  5. ^ 木村 1979, p. 89。日本古代ロシア研究会「大ノヴゴロド内政[I]」ではこの事件を1066年のこととしている。.
  6. ^ 『ノヴゴロド第一年代記』
  7. ^ 除村「原初年代記」(1943),p129
  8. ^ 国本ら 1987, p. 477-478 ボレスワフ2世。彼の母はイジャスラフのおば(マリア・ドグロネヴァ)であり、イジャスラフの妻は彼の父の妹ゲルトルド。更にボレスワフ2世の妻はイジャスラフの妹に当たるヴィシェスラヴァであり、両家は深い姻戚関係にあった。.
  9. ^ 木村 1979, p. 90。註によると現ロシアのベルゴロド州ではなく、キエフ西方のビロホロードカ村。.
  10. ^ 国本ら 1987, p. 489 ペチェルスキー修道院はフセスラフを一時的に支持した。ただし、長老のアントニーは(多大な影響力はあるとはいえ)洞窟で修道生活を送っており、当時の院長はフェオドシー。.
  11. ^ 日本古代ロシア研究会「大ノヴゴロド内政[I]」(1981)p250
  12. ^ 国本ら 1987, p. 478。『ソフィア年代記』、『ニコン年代記』の記事による。また、ヴォジェネはフセスラフが保護を求めたフィン系の民族。.
  13. ^ 国本ら 1987, p. 479。ポロツク地方の町。正確な位置は不明。チェルニゴフとポロツクの間にあったとされる。.
  14. ^ 国本ら 1987, p. 481。イジャスラフの言葉はフセヴォロドを唆す為のものであったが、國本『ロシア原初年代記』が註に引くS.H.Cross : The Russian Primary Chronicleによるとドネプル川を挟んで、西側のキエフとポロツク、東側のチェルニゴフとペレヤスラヴリという対立構図は1025年のヤロスラフ1世と弟・ムスチスラフの争いと同様であり、イジャスラフとフセスラフの同盟というのもいくらか真実味があったとしている。.
  15. ^ 国本ら 1987, p. 519.
  16. ^ 木村 1979, p. 90。註によるとキエフ大公の位を指す。.
  17. ^ 木村 1979, p. 92。註によると「麦打ちの平場~」以下の描写は戦闘を農耕に例えている。.
  18. ^ 木村 1979, p. 92。註によるとホルスは古ロシアの太陽神。また、(伊東 1981, p. 779)ではスラヴには人狼が日食、月食を引き起こすという迷信があることから、フセスラフが月食を引き起こしたことの比喩と解釈している。.
  19. ^ 木村 1979, p. 93。註によるとフセスラフが建てたとされる聖ソフィア大聖堂 (ポラツク)を指す.
  20. ^ 中澤 2014, p. 260。注釈の中でフセスラフのことを「呪術公」と異名付きで表記している。.
  21. ^ 伊東 1981, p. 778-779.
  22. ^ 国本ら 1987, p. 468 國本『ロシア原初年代記』が註に引くS.H.Cross : The Russian Primary Chronicleでも同様の指摘があり『イーゴリ軍記』やブィリーナにおける人狼としての「フセスラフ伝説」は年代記の出生時の逸話と密接な関係があるとしている。.


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