ハッジ・ハーシムとは? わかりやすく解説

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ハッジ・ハーシム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/07 10:26 UTC 版)

ハッジ・ハーシム(Hajji Hāšim;哈只哈心、1152年 - 1268年)は、モンゴル帝国に仕えたムスリムの一人。元来はイラン方面に居住していたが、イランを征服したフレグの使者として東アジア方面を訪れ、以後その子孫は東アジアに定着するようになった。


  1. ^ 『至正集』巻53碑志10西域使者哈只哈心碑,「公諱哈只哈心、阿魯渾氏、世西域人。国去天朝遠、而険非誠愨不可至、公凡両至人与其勇鎮阿水里渡」
  2. ^ 『至正集』巻53碑志10西域使者哈只哈心碑,「太祖皇帝兵圧境、公断渡修塁、堅守持久、衆怨公不降、懼破則残爾。公嘆曰『廃興有天、我非不知。但臣子分当爾也』。衆益澒洞、将内変、遂降」
  3. ^ 『至正集』巻53碑志10西域使者哈只哈心碑,「上按剣問抗師状、先断其髪将誅之。正色対曰『臣各為其主、非罪也。死不過汚一席地、何恨。但恐無名爾』。上壮而釈之。公仰瞻天表知可乗、樹立因進曰『阿特伯失剌子国、堅盛非他国比、攻之必難。抜其主与臣善、請往招之』。制可按兵馬魯察城。公単騎趨其国、諭以禍福、遂挙国内附。録功擢領怯憐口」
  4. ^ 松田1980,42頁
  5. ^ 「西域使者哈只哈心碑」には「入観計事」とある。モンゴルでは征服地の政治は現地の有力者に任せつつ、その領地に権益を持つ王侯が会計監査のため属僚を派遣することがあり、ハッジ・ハーシムの派遣もフレグ家投下領の監査のためであったと考えられる(松田1980,53-54頁)
  6. ^ 『至正集』巻53碑志10西域使者哈只哈心碑,「既班師、隷王旭列邸、従戦必捷屡入奏称旨。歳丁巳、割彰徳路為分地、江南平、益以宝慶路、王邸在極西絶域、遣使必慎択其人、以公偕魯思檐木子古里沙的、入覲計事、公夙慕中土、因挈家行、目疾留豊州、至燕病卒、時至元五年八月二十三也。享年一百一十七歳」
  7. ^ 楊2003,34頁


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